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> 総髪
総髪
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*コメント [#x0ca8e57] #comment
総髪とは、日本の伝統的髪型である。 *概要 [#u7928ff8] 伸ばした頭髪をオールバックにして撫で付け、後頭部に髷を作る。また、髷を作らずに後ろに撫で付ける「撫付総髪」と呼ばれるタイプもあり、由井正雪((1605-1651。軍学者で、3代将軍・徳川家光の死去を境に幕府転覆をもくろみ、浪人の丸橋忠也とともに反乱を起こそうとしたが幕府に計画が漏れてしまい、潜伏先の駿府の宿屋で幕府軍に包囲され、自殺した))や天一坊((?-1729。山伏。8代将軍・徳川吉宗の落胤を名乗って浪人を集め、世間を騒がせたが、逮捕されたのちに斬首))が後者の髪型で描かれることが多い。髪を結ぶ位置が高いものは、頭全体の様子が野菜の[[慈姑>クワイ]]に似ているため、「慈姑頭」と呼ばれた。 *歴史 [#i19386e2] 室町時代までは公卿や武士はほとんどがこの髪型で、総髪の上に兜や烏帽子を被ることが習慣であった。ただ、戦闘が長期に及ぶと、通気性のよくない兜を被っている部分が蒸れてきたり、ひどい場合は汗でかぶれ、化膿することもあった。一応、毛抜きで多少髪の毛を抜くこともあったが焼け石に水で、むしろ毛を抜いたことでそこから雑菌が入り、かぶれやただれが悪化することも多かった。最悪の場合は毛嚢炎にかかり、悪化すると炎症が広範囲に広がって激痛や発熱、体調不良を起こす可能性があった。毛嚢炎は今では市販薬で治りやすい病気だが、当時は死に至る病であった。例えば徳川家臣・榊原康政はこの病気がもとで衰弱し亡くなっている。戦国時代当時は医学が現在よりはるかに発展していなかったので、自己免疫に頼るしかなく、結果として放置する形になってしまったことで症状が悪化し、命を落としたといえよう。 そこで、戦国時代には前頭部を剃り、頭が蒸れるのを防いだ。これを&ruby(さかやき){月代};という。例えば、織田信長は「信長の野望」などのフィクションでは総髪の茶筅髷で描写されることがあるが、肖像画を見ると月代を剃って「折髷」にしていることがわかる。 やがて、江戸時代になると、成人男性の証明として、月代を剃ることが習慣化され、総髪は若者や神官、公卿、町医者((「御殿医」と呼ばれる官職についている医者は頭を剃り上げて丸坊主にする))、学者、浪人など限定された髪型となった。平賀源内や前野良沢などの肖像画をご覧いただければご理解いただけるだろうが、月代ではなく総髪である。しかし、本草学者で「本草図譜」を著した岩崎常正は月代を剃っている姿が描かれているが、それは彼の本業が''旗本、つまり幕臣''であったからである。 幕末の動乱期になると、再び総髪が大流行した。月代を剃ることがないため、少しでも時間を有効利用するためであった。この髪形を採用していた人物は坂本龍馬や西郷隆盛、桂小五郎等の勤王志士、新選組の近藤勇、さらに将軍・徳川慶喜など、枚挙に暇がない。面白いのは、同じ幕臣でも小栗上野介や福沢諭吉が月代を剃っていたのに対し、勝海舟や山岡鉄舟は総髪であったことである。また、フィクションではしばしば月代で描写される徳川家茂だが、墓の中の家茂の遺体を解析したところ、黒々とした総髪頭であったという。また、髪を剃る場合でも月代が極端に狭い「講武所風」という髪型が流行った。大老・井伊直弼の腹心の長野主膳や土佐勤皇党の首魁・武市半平太の肖像画、三菱の創業者・岩崎弥太郎が妻と並んで写った若き日の写真が「講武所風」の分かりやすい例である。 元号が明治に改元されても、いまだ丁髷や総髪頭は主流であった。明治4年に「散髪脱刀令」が公布された。この法令は「髪型を自分の好きな風に整えていい」という法令で、髷を結うこと自体を禁じるものではなかった。この法令にのっとり髪型を散切り頭に変える者もいれば、髪を切らずに髷で通す者もいた。岩倉具視はこの法令が発令されたのちも、欧米に不平等条約の改正の交渉に赴く際は和装で総髪であった((のちにシカゴで断髪。日本史の教科書に必ず記載されているほど知名度の高い岩倉使節団の写真をご覧いただければ、岩倉一人のみが和装で髷を結ったままであることがわかる))。薩摩藩国父((藩主には久光の嫡男・忠義が就任していたが、まだ若年であったので久光が実権を握り、「藩主の父」という意味付けで「国父」と呼ばれた))の島津久光は政府の諸政策への静かな抵抗として月代に和装、帯刀を終生まで行っていた。一方、久光の長子で最後の薩摩藩主の忠義は父とは異なり、政府の諸政策には受容的であったものの、父の教えに従いやはり終生髷で通し、大日本帝国憲法発布の式典の折には総髪に洋装という出で立ちで出席した。足尾銅山の社長・古河市兵衛は丁髷を結い続けたが、1900年にとうとう断髪し、その様子や散髪代が新聞記事に書かれたという。 そうして、次第に髷に比べて手入れのしやすい散切り頭や西洋風の髪型が主流となり、総髪および丁髷にする人は大正以降は力士を除いては大幅に減少した。現在でも髪の毛の手入れがしやすいという理由で総髪やそれに近いポニーテール寄りの髪型にする人はいる。 *コメント [#x0ca8e57] #comment *閲覧者数 [#pfa1b743] |現在|&online;| |今日|&counter(today);| |昨日|&counter(yesterday);| |合計|&counter;|