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> 牧野富太郎
牧野富太郎
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**青年期 [#b89f8c48] 15歳から佐川小学校の臨時教員としておよそ2年間教鞭をとる傍ら、牧野は植物採集やその研究に明け暮れる日々を送っていたが、次第に佐川での勉学だけでは物足りなくなっていた。&br; そんな中、17歳の時に高知師範学校の教員であった永沼小一郎という人物に出会い、欧米の植物学に触れる。これは牧野の人生に転機をもたらした。これと同時期に、江戸時代後期の本草学者・小野蘭山による「本草綱目啓蒙」(中国明代の生物百科事典「本草綱目」の解説書で、日本でみられる種類だけを、より掘り下げて説明している)に触れ、いよいよ植物学を極めていく。自らを「植物の精霊」だと感じ、日本中の植物をまとめ上げたフロラ(植物図鑑)をつくるという夢をいだいた。&br; そして19歳の時、第2回内国勧業博覧会見物と書籍や顕微鏡購入を目的に、番頭の息子と会計係の2人を伴い初めて上京した。東京では博物局の管理人であった旧幕臣の田中芳男や、前述の小野蘭山の曽孫にあたる&ruby(おのもとよし){小野職愨};((この二人は画工・服部雪斎と連名で彩色植物図鑑「有用植物図説」を刊行しており、牧野も蔵書として「有用植物図説」を購入していた))に出会い、小石川植物園を案内してもらっている。田中は牧野の探求心を高く評価しており、田中と牧野の交流は、田中が1916年に亡くなるまで続いたという。&br; 1884年(明治17年)、牧野は一度帰郷し、当主として祖母の勧めで2歳年下の従妹でかねてから許嫁であった猶と結婚した。 同年に再び上京し、帝国理科大学(現在の東京大学理学部)の教授・矢田部良吉を訪ねる。矢田部はこれを快く受け入れ、牧野が研究できるように数多くの資料や文献を貸した。植物研究を続ける中、牧野はロシアの植物学者・マキシモウィッチと交流している。マキシモウィッチは当時、ヨーロッパにおいて東アジアの植物の研究の権威であった。マキシモウィッチは牧野の送ってきた標本や精巧な図に感銘を覚え、牧野を激励する手紙を送っている。&br; 1887年(明治20年)、牧野は「植物学雑誌」を出版した。この雑誌上で牧野は''ヒルムシロ''という田に生息する植物についての学説を寄稿している。この年には、牧野を育てた祖母が土佐で亡くなった。このころ牧野は「日本植物志図篇」の出版に取り組んでいた。牧野はこの書物を出版するにあたり、図はすべて自分で描き、印刷工場で印刷方法も教えてもらい、そうして出版にこぎつけた。現在の植物図鑑の先駆的な存在であるこの書物は、マキシモウィッチから高評価であった。&br; このころになると、牧野の実家である岸屋は経営が大きく傾いていた。経営は牧野の祖母が亡くなったのち、牧野の妻である猶が担当していたが、牧野が膨大な金額の研究費を必要としており、猶はその金銭を夫に送り続けていたためであった。実家が困窮する中、小澤壽衛(スエ)という14歳の少女に一目ぼれし、ついには同棲をはじめ、第一子に園子(夭折)を設けた。1889年(明治22年)には''ジョウロウホトトギス''というホトトギスに近縁の新種の植物を発見。『植物学雑誌』に発表し、日本ではじめて発見されたヤマトグサに学名をつけた。その翌年には、ヤナギの観察中に、水路にタヌキのしっぽのような見慣れない水草を発見した。これは''ムジナモ''という植物で、日本ではこれが新発見であった。牧野はこのムジナモに関する論文を発表し、世界にその名を知らしめることとなった。&br; しかし、矢田部とその助手であった松村任三らにより、植物学教室の出入りを禁じられてしまう。これにより研究も妨害され、「日本植物志図篇」の刊行も打ち切りとなった。これは矢田部らが、自分たちとは異なり学歴を持っていない牧野の成功をねたんだといわれる一方で、研究用の資料を無断で返却期間を延長してなかなか返さないことや、若くして名を世界に知られた牧野の不遜な態度が両教授の怒りを買ったためであるともいわれる。このことで牧野はロシアに渡ることを計画するが、頼みの綱であるマキシモウィッチが病死したことで、計画はとん挫した。 &br;
*お断り [#sdf8d582] 本項目は、少しでも多くの方に読んでいただけるよう、筆者がかつて[[膨大なページwiki>https://w.atwiki.jp/bodai/pages/54.html]]に執筆させていただいたものの再録、および一部表記の改訂版となっています。決して当サイトの規則の無視や著作権の侵害の意図は存在しない、ということを念頭に置いていただきたく思います。 *概要 [#tbd81726] 牧野富太郎とは、明治時代から昭和時代にかけて活躍した植物学者である。1500種もの植物の品種を発見し、命名したことから「近代植物学の父」と称えられる。我が国に産する野生植物だけでなく、野菜などの農作物や観賞用の花卉、現在は植物には含まれない藻類や地衣類、キノコの研究を行った。 &attachref(./400px-Makino_Tomitaro.jpg); 画像出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Makino_Tomitaro.jpg 牧野78歳の時の写真である。「牧野日本植物図鑑」の冒頭に記載されている。 &br; |生没年|1862年~1957年| |出身地|土佐国高岡郡佐川村(現在の高知県高岡郡佐川町)| |身長|160cm| |職業|植物学者| *生涯 [#qe15e2a9] **幼少期 [#re0888de] 1862年、土佐国高岡郡佐川村の「岸屋」の長男として生まれる。実家は商家で、酒造業も営んでいた。幼いころから植物に興味を示し、野山を駆け回っていたという。父親(3歳の時)、母親(5歳の時)、祖父(6歳の時)を相次いで病で亡くし、祖母によって女手一つで育てられた。祖母は幼少期の牧野が相次いで肉親を失った不憫さから、彼に多くの愛情を注いだという。&br; 10歳から寺子屋へ通い始め、11歳の春からは藩校・名教館に通い始めた。この名教館はのちに佐川小学校となり、牧野はここで漢学や西洋風の地理・天文学を学んでいたが、学業に興味が持てず、2年で中退してしまい、以降は好きな植物採集に明け暮れることとなる。当時は、義務教育の概念がほとんど浸透していなかったため、祖母などの一族は、富太郎が小学校を中退してもその事で富太郎を叱ったことはなく、むしろ峰屋の跡継ぎになることを期待していた。 **青年期 [#b89f8c48] 15歳から佐川小学校の臨時教員としておよそ2年間教鞭をとる傍ら、牧野は植物採集やその研究に明け暮れる日々を送っていたが、次第に佐川での勉学だけでは物足りなくなっていた。&br; そんな中、17歳の時に高知師範学校の教員であった永沼小一郎という人物に出会い、欧米の植物学に触れる。これは牧野の人生に転機をもたらした。これと同時期に、江戸時代後期の本草学者・小野蘭山による「本草綱目啓蒙」(中国明代の生物百科事典「本草綱目」の解説書で、日本でみられる種類だけを、より掘り下げて説明している)に触れ、いよいよ植物学を極めていく。自らを「植物の精霊」だと感じ、日本中の植物をまとめ上げたフロラ(植物図鑑)をつくるという夢をいだいた。&br; そして19歳の時、第2回内国勧業博覧会見物と書籍や顕微鏡購入を目的に、番頭の息子と会計係の2人を伴い初めて上京した。東京では博物局の管理人であった旧幕臣の田中芳男や、前述の小野蘭山の曽孫にあたる&ruby(おのもとよし){小野職愨};((この二人は画工・服部雪斎と連名で彩色植物図鑑「有用植物図説」を刊行しており、牧野も蔵書として「有用植物図説」を購入していた))に出会い、小石川植物園を案内してもらっている。田中は牧野の探求心を高く評価しており、田中と牧野の交流は、田中が1916年に亡くなるまで続いたという。&br; 1884年(明治17年)、牧野は一度帰郷し、当主として祖母の勧めで2歳年下の従妹でかねてから許嫁であった猶と結婚した。 同年に再び上京し、帝国理科大学(現在の東京大学理学部)の教授・矢田部良吉を訪ねる。矢田部はこれを快く受け入れ、牧野が研究できるように数多くの資料や文献を貸した。植物研究を続ける中、牧野はロシアの植物学者・マキシモウィッチと交流している。マキシモウィッチは当時、ヨーロッパにおいて東アジアの植物の研究の権威であった。マキシモウィッチは牧野の送ってきた標本や精巧な図に感銘を覚え、牧野を激励する手紙を送っている。&br; 1887年(明治20年)、牧野は「植物学雑誌」を出版した。この雑誌上で牧野は''ヒルムシロ''という田に生息する植物についての学説を寄稿している。この年には、牧野を育てた祖母が土佐で亡くなった。このころ牧野は「日本植物志図篇」の出版に取り組んでいた。牧野はこの書物を出版するにあたり、図はすべて自分で描き、印刷工場で印刷方法も教えてもらい、そうして出版にこぎつけた。現在の植物図鑑の先駆的な存在であるこの書物は、マキシモウィッチから高評価であった。&br; このころになると、牧野の実家である岸屋は経営が大きく傾いていた。経営は牧野の祖母が亡くなったのち、牧野の妻である猶が担当していたが、牧野が膨大な金額の研究費を必要としており、猶はその金銭を夫に送り続けていたためであった。実家が困窮する中、小澤壽衛(スエ)という14歳の少女に一目ぼれし、ついには同棲をはじめ、第一子に園子(夭折)を設けた。1889年(明治22年)には''ジョウロウホトトギス''というホトトギスに近縁の新種の植物を発見。『植物学雑誌』に発表し、日本ではじめて発見されたヤマトグサに学名をつけた。その翌年には、ヤナギの観察中に、水路にタヌキのしっぽのような見慣れない水草を発見した。これは''ムジナモ''という植物で、日本ではこれが新発見であった。牧野はこのムジナモに関する論文を発表し、世界にその名を知らしめることとなった。&br; しかし、矢田部とその助手であった松村任三らにより、植物学教室の出入りを禁じられてしまう。これにより研究も妨害され、「日本植物志図篇」の刊行も打ち切りとなった。これは矢田部らが、自分たちとは異なり学歴を持っていない牧野の成功をねたんだといわれる一方で、研究用の資料を無断で返却期間を延長してなかなか返さないことや、若くして名を世界に知られた牧野の不遜な態度が両教授の怒りを買ったためであるともいわれる。このことで牧野はロシアに渡ることを計画するが、頼みの綱であるマキシモウィッチが病死したことで、計画はとん挫した。 &br; **壮年期 [#w6067ffa] 1893年(明治24年)、実家の岸屋がついに経営が立ち行かなくなり、破綻してしまった。牧野は家財を整理するために帰郷せざるを得なくなった。このとき当主の牧野は、猶と番頭の井上和之助を結婚させて店の後始末を託し、自らは研究に専念した。 郷里で研究を続けるかたわら、資金稼ぎのため指揮者のアルバイトを受けるという生活を送っていた牧野であったが、知人の協力で、駒場農学校への着任が決定する。その後も研究をつづけて多くの標本を残すが、やはり前述の悪癖から、牧野を嫌う者も少なからずいた。 1900年(明治33年)からは「大日本植物志」を刊行する。これは打ち切られた「日本植物志図篇」の続編というべき書物で、丸善書房の助けを得て刊行されたが、9種目の植物を解説したあたりで、上司となった松村任三の妨害により再び中止に追い込まれた。松村と牧野は植物の命名をめぐって対立したこともあるほど仲が悪く、松村は牧野を「婆あ育ちのわがまま者で、頼まれたことをやらない」と酷評していた。 1906年(明治39年)には博物学者の村越三千男・高柳悦三郎と連名で、原色の多色刷り石版の図譜「普通植物図譜」を刊行している。これは月一回のペースで発行され、最終的に全5巻60集まで発行された。 やがて牧野は村越と協力し合いながら「野外植物の研究(正・続)」(1907)、「植物図鑑」(1908、「野外植物の研究」の正編と続編を合冊し、学名などを加え植物種も増やした増補版。その後いくたびか増補版が販売された)などを発行していく。この「植物図鑑」の発刊元の参文舎の社長が病死し、版権は北隆館に写った。そして、北隆館から「植物図鑑」が発刊されるにあたって、もともと東京博物学研究会の会長であった村越の名前が消され、あたかも牧野一人でこの図鑑を制作していたようになってしまっていたが、牧野はこの件について訂正の申し出を一度もしなかった。これがもとで、牧野と村越は袂を分かつこととなってしまったという。 1916年(大正5年)には個人で『植物研究雑誌』を創刊する。このころの牧野の生活は困窮を極め、収集した標本10万点を海外に売却することを考えていた。「篤学者の困窮を顧みず、国家的資料が流出することがあれば国辱である」という牧野の困窮を報じる記事が「東京日日新聞」「大阪毎日新聞」で報道されると、久原房之助と&ruby(いけながたけし){池長孟};という二人の若者が援助を申し出た。 雑誌の発刊当時、牧野を取り巻く状況は芳しくなく、池長からの援助がストップするという事態にもみまわれたが、1926年(大正15年)には津村重舎(現在の津村順天堂、いわゆるツムラ)の財政的援助を得て復刊にこぎ着けており、牧野の死去後も現在に至るまでツムラから刊行されている。 1912年(明治45年)1月30日から1939年(昭和14年)5月31日までのおよそ27年間にわたって東京帝国大学理科大学講師を勤める。講義の内容は都都逸やしゃれを交えたわかりやすいもので、学生からの人気は高かった。当時は定年制度はほぼあってないようなものであったが、70代半ばまで教授を務めることは当時としても異例であった。学内では牧野が権威という者への理解が乏しかったため、「牧野教授をやめさせよう」という声が何度も上がったが、結局牧野に代わる人材がほかに誰もいないということで沙汰止みになった。 **晩年 [#a4b15742] 1927年(昭和2年)4月、65歳で東京帝国大学から理学博士の称号を受ける。このころ発表した「日本植物考察」(全編英語)という論文に、仙台で発見した「''スエコザサ''」((葉の片側が裏側に少し巻き、葉の表側が細かな白い毛でおおわれるという特徴を持つ))というアズマザサの突然変異種を発表する。これには、長年苦労をかけた妻に感謝する意図があった。このころ、壽衛の体調は思わしくなくなり始めていたのだった。この論文を発表した翌年、壽衛は55歳で病死した。なお、この「スエコザサ」は「牧野日本植物図鑑」及びその改訂版のいずれにも収録されていない(母種のアズマザサは収録されている)が、高知県立牧野植物園や東京都練馬区の牧野記念庭園で現物を見ることができる。 それから牧野は、誠文堂新光社から自身の植物学のエッセ―をまとめた『牧野植物学全集』を刊行した。このシリーズは、明治期に牧野が手掛けた一連の図説を収録した第一巻『牧野日本植物図説集』をはじめとして、全5巻(+索引1巻)からなるものであった。 &br; 1940年(昭和15年)、東京帝国大学を退官後、78歳で研究の集大成で、牧野の代表作とも言える「牧野日本植物図鑑」を刊行した。これは、牧野の研究の集大成というべき書物であった。収録種数は3206種で、解説で補足的に述べた種も加えると3500種に近くなり、当時の植物図鑑の収録数としてはかなり多かった。これは、学名や和名などへ幾度の推敲を重ね、ひとまずは牧野の思う形で図鑑の出版が相成ったということを示している。&br; 実は、1925年に牧野のライバル的存在となっていた村越三千男が「大植物図鑑」を発刊してからというもの、北隆館は牧野による「日本植物図鑑」の早期刊行を計画していた。村越の「大植物図鑑」に後れを取ってはならじとばかりに、北隆館は牧野が満足に改訂できていない段階で発刊を急いだため、多数の誤謬を残したままとなってしまい、34ページの正誤表がつけられることとなっていたのだった。牧野はそうした出来事から、正確な情報を収録した図鑑を刊行することを目標としていた。&br; 1943年(昭和18年)には園芸研究家・石井勇義(1892~1953)の手掛けたカラー写真の図鑑『原色園芸植物図譜』(全6巻、縮刷版は全3巻)の監修を手掛けた。石井は雑誌『実際園芸』を刊行しており、この雑誌への寄稿を牧野に依頼して以来、二人は30歳差と親子ほど年が離れていたものの、よき親友となった。太平洋戦争のさなかに『実際園芸』の廃刊を余儀なくされた際、石井は雑誌刊行の協力者にそれぞれお礼を述べているが、そこに牧野の名前があり、牧野については「牧野博士には慈父にもまさるお力添えを下さった」という表現を用いて感謝の意を表明している。終戦後に石井は『農耕と園藝』という雑誌の刊行を始め、この雑誌のタイトルには牧野に揮毫を依頼した。牧野が亡くなる4年前、石井は61歳で突如この世を去ってしまったが、石井の没後翌年に、牧野は『原色園芸植物図譜』を再刊行する際に、序文に『君を憶う』という題で親友の急逝を悼む詩を詠んでいる。&br; 1944年(昭和19年)にはしばしば牧野の邸宅のある練馬区を含めた東京が空襲に見舞われた。そうした中でも牧野は研究を続けていたが、同居していた牧野の次女が避難するよう呼び掛けると「わしはこの標本たちと心中してしまうんだ」と駄々をこねて家族を困らせたという。翌年に山梨県に疎開し、そこで終戦を迎えた。&br; 1949年(昭和24年)、大腸カタルで一旦危篤状態となるも、回復。その回復力には主治医も驚かされたという。そうした中で、牧野は「牧野日本植物図鑑」の増補の図を新たに書き下ろし、原本に収録されたいくつかの図に修正を加えた。[[アケビ]]や[[ワタ]]、[[ハラン]]や[[トウガラシ]]、[[ヤブコウジ]]などの図をいくつか描きなおしている。&br; 1951年(昭和27年)には未整理のまま自宅に山積みされていた植物標本約50万点を整理するために「牧野博士標本保存委員会」が組織された。 1954年(昭和29年)頃から病気がちとなり、寝込むことが多くなったが、研究意欲は衰えておらず、「学生版原色植物図鑑」(全3巻)や「原色少年植物図鑑」を刊行した。牧野はもともと「牧野日本植物図鑑」を原色図版で発行したいと考えていたが、戦時体制の「ぜいたくは敵だ」という思想が蔓延しているなか、モノクロ線画で世に出すことを余儀なくされていたため、わずかなりとも牧野の願望が叶ったと思われる。&br; 1956年(昭和31年)には「植物学九十年」「牧野富太郎自叙伝」を刊行。さらに、かつてのライバルである村越三千男の「内外植物原色大図鑑」(1933年刊行)の解説を文語調から口語調、さらに旧字体から現代仮名遣いに改めた「原色植物大図鑑」(全5巻)を刊行している。原著の著者である村越は1948年に死去しており、明治期の「植物図鑑」発刊以来のわだかまりが溶けていたものと思われる。&br; 同年12月、郷里の高知県佐川町の名誉町民に任命された。&br; 1957年(昭和32年)、家族に看取られて死去した。享年94歳。牧野の逝去の翌年には高知県に牧野植物園が設立された。さらに、牧野の終の棲家となった練馬区の邸宅は現在、「牧野記念庭園」として一般公開されており、庭園に植えられたおよそ300種の植物やかつて牧野の使っていた書斎を閲覧することができる。 *逸話 [#z9ef99a5] ●自身の写真を数多く残している。若い頃はいわゆる「イケメン」で、明治初期に撮影された写真から、その風貌をうかがい知ることができる。また、ユーモア好きで、木々の間から顔を除かせて、「おばけ」のポーズをとって写ったり、頬かむりをしてカラカサタケという大きなキノコを両手に持って踊っている写真もある。また、晩年には目の前に大小3つの「ボウブラ」((いわゆるキクザカボチャ。牧野富太郎関係の書籍のほとんどにこの写真が掲載され、「ボウブラと牧野富太郎」というキャプションが付されている。牧野はいわゆる「カボチャ型」をした日本カボチャの一品種を「ボウブラ」と呼び、京都の伝統野菜の一つである『鹿ケ谷』というひょうたん型の品種を「カボチャ」と呼んで区別している(1940,牧野)。))を目の前に並べ、微笑みを浮かべている写真もある。&br; ●常識や礼儀をわきまえない振る舞いからトラブルを起こすことが多かった反面、天真爛漫さや博識で多くの人に慕われた。莫大な借金を抱え、何度も危機に陥るが、借金の肩代わりをすると名乗り出た人物がかならずいた。&br; ●年齢に関係なく、他人には真摯に対応したため、子供や若者、一般の植物愛好家に好かれていた。ある日、7歳の小学生くらいの男の子が、指先くらいの大きさの植物を持って牧野のもとを訪ね「先生これは何ですか」と問うたところ、牧野は目を細めてにっこり笑い「これは松」と言いながらその子供の頭を優しく撫でたという。&br; ●明治時代から昭和時代の男性としては珍しく、喫煙や飲酒をしなかった。また、松村任三からの嫌がらせ以外はストレスらしいストレスはほとんどなかった。このため、87歳の時に大腸カタルで危篤に陥ったとき以外はいたって健康体であった。晩年もすき焼きが大好物であったという。また、終の棲家となった練馬の邸宅では、毎朝起床してすぐにトマトとフランスパンの朝食を済ませ、疲れを知らぬかのように一日中書斎にこもり、幼少期のひ孫の一浡氏が夕食ができたことを知らせるまで作業をしていたという。&br; ●「およそ植物学を学ぶものは、植物に関係する分野を全て学ばなければならない」と語っており、「物理学、化学、天文学、美術、数学、文学は絶対にこれを学ばねばならない」と主張している。牧野自身も古典籍への造形は深く、自身のエッセイにおいて『本草図譜』や『草木図説』『訓網図彙』((江戸時代前期の百科事典))『植物名實圖考』((中国(清)の学者・&ruby(ごきしゅん){呉其濬};による近代的植物図鑑の嚆矢といえる図譜))などを引用しているほか、『草木図説』の著者である飯沼慾斎の子孫・飯沼長順とともに『増訂草木図説』を発行し、慾斎が原著で観察できていなかった部分の図を描き足し、学名も当時の現行のものに修正している。&br; 最晩年には『万葉集』に登場する植物の解説書『万葉植物図譜』の作成を計画していたが、生前に刊行することは叶わなかった。2022年春にようやく、北隆館編集部によって、牧野の原稿や、牧野が画家の水島南平((水島は「牧野日本植物図鑑」の図も数点担当している))に描かせた110枚の彩色図版をもとに、「牧野万葉植物図鑑」が発刊された。それに先立つ『植物一日一題』では、万葉集の「みちのべの''&ruby(・・・){いちし};''のはなのいちじろく、ひとみなしりぬあがこひづまは」((道端のいちしの花が目立つように、私の恋しい妻のことがみんなに知られてしまいました。「いちじろく」=目立つ、著しい、はっきりしているの意))という歌から、「いちし」((キイチゴの類やタケニグサなど様々な説がある))という植物をヒガンバナと推定している。また中国や日本の古典のみならず、18世紀に刊行されたイギリスの植物の雑誌「カーティス・ボタニカル・マガジン」から図をいくつか参考にして自身の著書に加えている。&br; ●「雑草という名の草はない」という名言はよく知られているが、これは長年出典となる資料が見つかっていなかったため、創作であるという説もあった。この名言が知られるようになったのは、晩年の昭和天皇がこれを引用したからで、一時は昭和天皇の名言ともされていたのだ。2022年になり、その出典が発見された。1925年(大正14年)から1928年(昭和3年)にかけて、帝国興信所((現在の帝国データバンク))を母体とする雑誌「日本魂」の編集記者を務めていた若き日の山本周五郎((小説家。代表作に「さぶ」「ちいさこべ」「樅ノ木は残った」がある))が牧野にインタビューをした際に、「雑草」という言葉を用いたところ、こうたしなめられたという。 &br; >「きみ、世の中に〝雑草〟という草は無い。どんな草にだって、ちゃんと名前がついている。わたしは雑木林(ぞうきばやし)という言葉がキライだ。松、杉、楢(なら)、楓(かえで)、櫟(くぬぎ)——みんなそれぞれ固有名詞が付いている。それを世の多くのひとびとが〝雑草〟だの〝雑木林〟だのと無神経な呼び方をする。もしきみが、〝雑兵〟と呼ばれたら、いい気がするか。人間にはそれぞれ固有の姓名がちゃんとあるはず。ひとを呼ぶばあいには、正しくフルネームできちんと呼んであげるのが礼儀というものじゃないかね」(木村久邇典『周五郎に生き方を学ぶ』実業之日本社) &br; ※引用:https://www.huffingtonpost.jp/entry/makino_jp_6431083be4b0c2da1506d559 &br;●牧野が初めて上京した1881年当時、日本は自由民権運動の真っ只中であった。当時19歳の牧野もまた自由民権運動に傾倒したが、この際に坂本龍馬の親族・土居磯之助と知り合い、その交流は牧野が年老いてもなお続いたという。それを踏まえてか、2023年度上半期朝ドラ「らんまん」ではディーン・フジオカ演じる「天狗」こと坂本龍馬が登場し、親戚から心ない言葉を言われて落ち込んでいた幼き日の主人公に「要らん命らぁ、一つもない」と優しく慰め、仲間から「下関にいることになっているはずですきに」((牧野が5歳であった1867年当時、龍馬は下関に滞在しており、高知には戻っていない))と呼び止められている。 *著作 [#je86654a] #shadowheader(2,生前刊行されたもの) 「植物学雑誌」(1887~現在) 「日本植物志図篇」(1887~1889) 「大日本植物志」(1900) 「日本羊齒植物圖譜」(1901~1902) 「日本禾本莎草植物図譜」(1901~1903) 「新撰日本植物図説」(1903) 「普通植物図譜」(村越三千男との合作、1906) 「野外植物の研究(正・続)」(村越三千男との合作、1907) 「増訂草木図説」(飯沼慾斎の原著に加筆、1907~1910) 「日本高山植物図譜. 第1巻」(1907) 「日本高山植物図譜. 第2巻」(1908) 「植物図鑑」(1908、1913) 「児童野外植物のしをり」(1912) 「植物学講義」(1913、 第7巻のみ1914) 第1巻「植物記載学. 前編」 第2巻「植物記載学. 後篇」 第3巻「植物採集標品製作並整理貯蔵法」 第4巻「羊歯及種子植物ノ形態. 正」 第5巻「羊歯乃種子植物ノ形態. 続篇」 第6巻「植物自然分科検索表」 第7巻「植物分類学 巻1」 「植物研究雑誌」(1916~) 「雑草の研究と其利用」(1919) 「植物ノ採集ト標品ノ製作整理」(1923) 「日本植物図鑑」(1925) 「日本植物総覧」(1925) 「日本植物考察」(1927) 「趣味の植物採集」(1935) 「随筆草木志」(1936、2023年中公文庫より復刊) 「牧野植物学全集」(1936~1941) 第1集 「日本植物図説集」((「大日本植物志、新撰日本植物図説、日本植物志図篇の合本)) 第2集 「植物随筆集」 第3集 「植物集説 上」 第4集 「植物集説 下」 第5集 「植物分類研究 上」 第6集 「植物分類研究 下」 第7集 「総索引」 「趣味の草木志」(1938) 「牧野日本植物図鑑」(1940) 「原色野外植物図譜(正・続)」(1942) 「植物記(正・続)」(1943、いずれも2008年にちくま学術文庫から復刊。特に続編は「花物語 続植物記」と改題) 「牧野植物混混録」(1946~1949) 「牧野植物随筆」(1947) 「続牧野植物随筆」(1948) 「学生版 牧野日本植物図鑑」(1948、2000年以降には帰化植物の項が追加) 「四季の花と果実」(1949、1981年に「植物知識」と改題の上講談社学術文庫から出版) 「図説普通植物検索表 第1 (草本)」(1950、1970年に復刊) 「植物一日一題」(1953、2008年ちくま学術文庫より復刻) 「原色日本高山植物図譜」(1953) 「学生版原色植物図鑑(園芸植物篇、野外植物篇、続野外植物篇)」(1954) 「原色植物大図鑑」(1955~56) 「牧野植物一家言」(1956) 「植物学九十年」(1956) #shadowheader(2,没後刊行されたもの) 「我が思ひ出〈遺構〉」((「牧野植物一家言」の続編にあたる書物で、牧野の没する前には原稿がまとめられていた))(1958) 「牧野新日本植物図鑑」(1961) 「精選 牧野植物図集」((次女・牧野鶴代が父親の遺した図をまとめたもので、晩年の父親の「日本植物図説」を刊行するという希望をかなえた図集))(1969) 「復刻版 牧野日本植物図鑑」(1970) 「原色牧野植物大図鑑(正・続)」(1984) 「コンパクト版 原色牧野日本植物図鑑」(1985) 「原色牧野和漢薬草大図鑑」(1992) 「学生版 牧野日本植物図鑑 増補改訂版」(2000) 「APG原色牧野植物大図鑑」(2012) 「コンパクト版 APG牧野植物図鑑」(2014) 「卓上版 牧野日本植物図鑑」(2017) 「新分類 牧野日本植物図鑑」(2017) 「新学生版 牧野日本植物図鑑」(2020) 「牧野植物図鑑原図集」(2021) 「牧野富太郎の植物図鑑」(2023) 「牧野万葉植物図鑑」(2023) 「オリジナル普及版 牧野日本植物図鑑」(2023) 「オリジナル普及版 牧野日本植物図説集」(2023) *牧野を題材とした作品 [#j9a94c09] ●小説 -朝井まかて「ボタニカ」(牧野富太郎の伝記小説。牧野の功績だけではなく、牧野の失敗や欠点もしっかり描いている) -東野圭吾「夢幻花」(作品中に「牧老人」という人物が登場し、牧野をベースにしているといわれる) ●映像作品 -2023年上半期連続テレビ小説「らんまん」(牧野富太郎をベースとした主人公「槙野万太郎」の半生を描く。主演は神木隆之介。テーマソングは『愛の花』(あいみょん)) *関連人物 [#ica3ba9f] **親族 [#fe3bc37b] -''牧野小左衛門(祖父)'' -''牧野浪子(祖母)'' 両親や祖父をなくした富太郎少年を女手一つで育てた。 -''牧野佐平(父、早世)'' -''牧野久壽(母、早世)'' -''牧野壽衛子(妻)'' 牧野の糟糠の妻。 -''牧野春世(長男)'' -''牧野百世(次男)'' -''牧野勝世(三男)'' -''牧野香代(長女)'' -''牧野鶴代(次女)'' 母・壽衛子の亡き後、父親の研究を支援。牧野の没後、牧野が明治期から晩年に描いていた植物図を収集した「精選 牧野植物図集」を出版。 -''牧野己代(三女)'' -''牧野(岩佐)玉代(四女)'' -''岩佐まゆみ(外孫)'' -''岩佐吉晃(外曽孫)'' -''牧野&ruby(かずおき){一浡};(曽孫)'' 現・牧野記念庭園学芸員。 **牧野富太郎ゆかりの人物 [#q587c3bf] -[[飯沼慾斎]] -[[小野蘭山]] -[[伊藤圭介]] -[[田中芳男]] -[[村越三千男]] -[[矢田部良吉]] *コメント [#sdfa264d] #comment - らんまん、観たな〜 -- &new{2023-07-24 (月) 16:51:34}; *閲覧者数 [#pfa1b743] |現在|&online;| |今日|&counter(today);| |昨日|&counter(yesterday);| |合計|&counter;|