Top > 荘園(日本史用語)


荘園とは、日本の歴史において、古代から中世に施工された土地制度である。
*荘園制度発足以前 [#u412d866]
古代の日本では、天皇や豪族がそれぞれ自領の土地を支配していた。この方法では土地制度にばらつきが生じ、効率的に年貢を回収することができなかった。645年の大化の改新後に、''班田収授法''による公地公民制が敷かれることとなった。
この班田収授法は、戸籍を作成し、年齢や性別ごとに面積を統一した''口分田''を与え、そこから納税させたのち、口分田の所有者が死ぬとその口分田を回収する制度であった。
しかし、この制度には致命的な欠陥があった。国が所有者の口分田を回収したはいいが、結果として口分田が不足し、租税に滞りが出たことである。
また、「結局国がうちの土地回収するんじゃ意味じゃないですかやだー!」とばかりに、領民の耕作意欲が萎え、結果として口分田が荒れ地と化してしまうことも一つの原因であった。
この事態を回復するため、長屋王(?~729)((天智天皇の孫で、武市皇子の長男。729年の政争で藤原四兄弟(&ruby(むちまろ){武智麻呂};、&ruby(うまかい){宇合};、&ruby(ふささき){房前};、&ruby(まろ){麻呂};)に追い込まれ、邸宅にて妻子とともに自殺))が722年に''百万町歩開墾計画''を発表し、ほどなくして''三世一身法''(723年。開墾した土地の所有を親・子・孫の三代にわたって許可する)を出すが、いずれも焼け石に水の結果に終わった。
*荘園整理令 [#td63196e]
朝廷は743年、''墾田永年私財法''を発令した。これは、耕作した土地を永遠に所有することを認可する制度であった。これにより公地公民制度が崩壊し、資本を持つ中央貴族・大寺社・地方の富豪などが活発に開墾を行い、大規模な土地、いわゆる''荘園''の私有を行うようになった。
荘園で働く人員を''荘民''と呼び、荘民の管理を行った領主、つまり''&ruby(かいほつりょうしゅ){開発領主};''を''荘官''と呼ぶ。
私有地である荘園が増加すると、公地が減少し、税を負担する公民の数も減少する。安定した税の収入を得るため、朝廷は''醍醐天皇''の治世(在位897~930)の''延喜の荘園整理令''(902年)を皮切りに、治世の天皇の代替わりごとに''荘園整理令''を発令した。有名なものに、''後三条天皇''の治世(在位1068~1073)に出された''延久の荘園整理令''(1069年)がある。
だが、これらの荘園整理令をしても、状況は一時的には好転したものの、すぐに税収入は不安定なものになった。それは、荘園整理令を制定する貴族が荘園を所有し、荘園から得た収入で裕福な暮らしを営んでいたため、それらの整理令が貴族たちによって自分たちの都合の良いものになるように作られていたためである。
10世紀に入ってから、荘園制度は日本全国に広がっていった。地方の有力な豪族は、藤原氏などの有力貴族や東大寺・興福寺などの大寺社に自らの土地を''寄進''した。これは、荘園整理令により自らの土地を削減されるのを防ぐ意図があった。これらの土地を権力者に寄進し、名目上の土地の権利者に祭り上げることで、国司や朝廷の官人による干渉を防ぎ、荘園の私有を続けようとしたのである。
いかなる広大な荘園にも租税の義務はあり、荘民にも納税の義務は生じていた。しかし、荘園の所有者である有力な豪族は荘園領主であった有力貴族たちは、自分の荘園に関して、租税義務が免除される''不輸の権''と国司の干渉を拒む''不入の権''を確保し、労働力の流出を抑えた。こうした国司から免税の権利を得た荘園は''官省符荘''や''国免荘''と呼ばれた。
*荘園の終焉 [#p98477b4]
源頼朝が幕府を設立した1192年、土地ごとに''地頭''が設置された。地頭は警察権や荘園の管理権、年貢の取り立て権を有したが、次第に横暴な権力者と化し、「泣く子と地頭には勝てぬ」ということわざが生まれるほどであった。その最もたる例に、「阿氐河荘「紀伊国)民の訴状」がある。'''「ヲレラカ(俺等か?または吾等か?) コノムキ(麦) マカヌ(蒔かぬ)モノナラハ メコトモ(女や子ども)ヲ ヲイコメ(追い込め) ミヽ(耳)ヲキリ ハナヲソキ カミヲキリテ、アマニナシテ、ナワホタシ(縄絆)ヲウチテ、サエ(苛)ナマント候ウテ・・・」'''で知られるこの文面は、当時の地頭の横暴さを如実に表す史料として教科書に掲載される。
そうして、幕府や地頭との交渉を経て、荘園領主は''&ruby(じとううけ){地頭請};''という措置をとった。これは、地頭の権利を認め荘園の管理を地頭に任せる代わりに、一定の年貢を荘園領主に納めることを約束させるものであった。この約束も、次第に軽視されるようになっていった。
やがて幕府は、最後の手段として''下地中分''を実行する。土地を荘園領主と地頭で分け合うという制度である。しかし、この措置をとったところで、荘園領主が不在の土地は、地頭に回収されていくのであった。
こうして荘園制度は室町時代には応仁の乱などの乱世の中で形骸化し、桃山時代に豊臣秀吉による太閤検地が行われたことで完全に消滅することとなった。この太閤検地は幕藩体制の雛型となり、歴史学者によっては太閤検地の開始を近世の開始とする向きもある。
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