Top > 最期の言葉一覧(日本編)


ここでは、日本の歴史上に生きた人物や芸能人などの最期の言葉についてそれぞれ記しています。
*天皇・執権・将軍 [#k569b92a]
|''言葉''|''人物''|''死亡年月日''|''死因''|
|日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん|崇徳上皇|1164年9月14日|病死|
|尼ぜ、私をどこへ連れて行くのだ?|安徳天皇|1185年4月25日((壇ノ浦の戦い))|入水|
|出でいなば 主なき宿と なりぬとも 軒端の梅よ 春を忘るな|源実朝|1219年2月13日|暗殺|
|南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・・|北条義時|1224年7月1日|病死|
|業鏡高く懸げ 三十七年 一槌にして打ち砕き 大道坦然たり|北条時頼|1263年12月24日|病死|
|先に行く あとに残るも 同じこと 連れて行けぬを わかれぞと思う|徳川家康|1616年6月1日|病死|
|尊皇とは、勤王とは、なんぞや・・・|徳川慶喜|1913年11月22日|病死|
|わしの死んだ後は、渋沢を祖父と思い、万事、何事も渋沢に相談するように|~|~|~|
*藩主・幕臣・家老・藩士[#yff7ca86]
|''言葉''|''人物''|''死亡年月日''|''死因''|
|&ruby(あらたま){新玉};の年にまかせて咲く花の名のみ残らば&ruby(さきがけ){魁};と知れ|板倉重昌|1638年2月14日|戦死|
|西へちろり東へちろりあかつきの明星の如き我が身なりけり|真田信之|1658年11月12日|病死|
|あら楽し 思ひは晴るる 身は捨つる 浮世の月に かかる雲なし|大石内蔵助|1703年3月20日|切腹|
|所宝惟賢|大岡忠相|1752年2月3日|病死|
|なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬなりけり|上杉鷹山|1822年4月2日|病死|
|今更に何かうらみむうき事も 楽しき事も見はてつる身は|松平定信|1829年6月14日|病死|
|一、弟久光の長男又次郎を継嗣とする。一、又次郎は斉彬の女暐姫の婿養子とする。一、斉彬の世子哲丸は幼少であるので、又次郎の順養子としたい。|島津斉彬|1858年8月24日|病死(暗殺説アリ)|
|なき数に よしや入るとも 天翔り 御代をまもらむ すめ國のため|松平春嶽|1890年2月6日|病死|
|今もなほ慕ふ心は変はらねど&ruby(はたとせ){二十年};余り世は過ぎにけり|松平容保|1893年12月5日|病死|
|真心の あるかなきかはほふり出す 腹の血しおの色にこそ知れ|林忠崇((上総国請西藩藩主。最後の大名として知られる))|1941年1月22日|老衰|
|琴となり 下駄となるのも 桐の運|~|~|~|
*源平争乱~室町の武将 [#w22d6a3c]
|''言葉''|''人物''|''死亡年月日''|''死因''|
|正清はどこか、金王丸はいないか、義朝は今やられた!|源義朝|1160年2月11日|暗殺|
|我れに木太刀の一本なりともあれば|~|~|~|
|あしくきらば、しや汝がかほにくいつかむずる((まずく(頸を)斬ったらお前の頸に食らいついてやる))|源義平|1160年3月4日|斬首|
|保元のむかしは、矢一本で二人の武者を射殺したもの。嘉応の今は、一矢で多くの兵を殺してしまった。南無阿弥陀仏。|源為朝|1170年4月23日|自害((生存して琉球に逃げ延び、琉球王国の祖となったという伝説がある))|
|頼朝が頭を刎ねて、我が墓前にかくべし|平清盛|1181年3月27日|マラリア|
|日来はなにともおぼえぬ鎧が、今日は重うなったるぞや。所々で討たれんより、一所でこそ討死もせめ|木曽義仲|1184年3月4日|戦死|
|これ見給へ、東国の殿ばら、日本一の剛の者の、自害する手本よ|今井兼平|~|~|
|波の下にも、都はございます|平徳子|1185年4月25日|入水|
|見るべき程の事をば見つ。今はただ自害せん|平知盛|~|~|
|六道の道の衢に君待ちて弥陀の浄土へすぐに参らん|武蔵坊弁慶|1189年6月15日|戦死|
|後の世もまた後の世もめぐりあへ染む紫の雲の上まで|源義経|~|~|
|早々宿所に火をかけよ、敵の近付く|~|~|~|
|出でていなば主なき宿となりぬとも軒端の梅よ春を忘るな|源頼朝|1199年2月9日|落馬(糖尿病?)|
|罪業深き悪念なれども、われもかように思ふなり。いざさらば同じく生を替へてこの本懐を達せん|楠木正成|1336年7月4日|戦死|
|今はこれまで|新田義貞|1338年8月17日|自害|
|かへらじと かねて思へば梓弓 なき数にいる 名をぞとどむる|楠木正行|1348年2月4日|自害|
*戦国 [#e9329638]
|''言葉''|''人物''|''死亡年月日''|''死因''|
|夏山の 茂みふきわけ もる月は 風のひまこそ 曇りなりけれ|今川義元|1560年6月12日((桶狭間の戦い))|戦死|
|少なくとも三年はわしの死を隠せ|武田信玄|1573年5月13日|病死|
|四十九年 一睡夢 一期栄華 一盃酒|上杉謙信|1578年4月19日|病死|
|光秀か、是非もなし|織田信長|1582年6月21日((本能寺の変))|自害|
|心知らぬ 人は何とも 言はば言へ 身をも惜しまじ 名をも惜しまじ|明智光秀|1582年7月2日|落ち武者狩り|
|夏の夜の 夢路はかなき あとの名を 雲井にあげよ 山ほととぎす|柴田勝家|1583年4月24日|自害|
|昔より 主をば討つ身の 野間なれば 報いを待てや 羽柴筑前|織田信孝|1583年6月|自害|
|我身今 消ゆとやいかに おもふへき 空よりきたり 空に帰れば|北条氏政|1590年8月10日|自害|
|つゆとをち つゆときえにし わが身かな なにはのことは ゆめのまた夢|豊臣(羽柴)秀吉|1598年9月18日|病死|
|うるさの経帷子や、おれはいらぬ、御身あとからかぶりをりゃれ|前田利家|1599年4月27日|病死|
|契りあらば 六の巷に まてしばし おくれ先立つ 事はありとも|大谷刑部吉継|1600年10月21日((関ヶ原の戦い))|自害|
|筑摩江や 芦間に灯す かがり火と ともに消えゆく 我が身なりけり|石田治部少輔三成|1600年11月6日|斬首|
|祈るぞよ 子の子のすへの 末までも まもれあふみの 国津神々|井伊直政|1602年3月24日|過労死|
|井伊直政が先に死んだら、私も長くないだろう|榊原康政|1606年6月19日|病死(毛嚢炎)|
|死にともな 嗚呼死にともな 死にともな 深きご恩の君を思えば|本多忠勝|1610年12月3日|病死(糖尿病?)|
|先に行く あとに残るも 同じこと 連れて行けぬを わかれぞと思う|徳川家康|1616年6月1日|病死|
|曇りなき 心の月を さきたてて 浮世の闇を 照らしてぞ行く|伊達政宗|1636年6月27日|病死|
|咲きしより今日散る花の名残まで 千々に心のくだけぬるかな|~|~|~|
|馬上少年過 時平白髪多 残躯天所許 不楽是如何|~|~|~|
*幕末 [#wdaf255e]
|''言葉''|''人物''|''死亡年月日''|''死因''|
|大君の ためにはなにか 惜しからむ 薩摩の瀬戸に 身は沈むとも|月照|1858年12月20日|入水|
|身はたとひ 武蔵の野辺に 朽ちぬとも 留め置かまし 大和魂|吉田松陰|1859年11月12日|斬首|
|咲きかけし 猛き心の一房は 散りての後ぞ 世に匂いける((桜田門外の変の前日に詠んだ句))|井伊直弼|1860年3月24日|暗殺|
|オイごと刺せ!|有馬新七|1862年5月21日((寺田屋事件))|粛清|
|時にあはば散るもめでたし山桜、めづるは花の盛りのみかは|佐久間象山|1864年8月12日|暗殺|
|大山の 峯の岩根に 埋にけり わが年月の 大和魂|真木和泉|1864年8月22日|自害|
|思ひきや野田の案山子の梓弓引きも放たで朽ちはつるとは|中山忠光|1864年12月13日|暗殺|
|ひきつれて帰らぬ道をゆく身にもやまとごころの道はまよわじ|武田耕雲斎|1865年3月1日|自害|
|君が為め尽くす心は水の泡、消えにし後は澄みわたる空|岡田以蔵|1865年7月3日|斬首|
|ふたゝひと 返らぬ歳を はかなくも 今は惜しまぬ 身となりにけり|武市瑞山|~|切腹|
|おもしろき こともなき世を おもしろく|高杉晋作|1867年5月17日|病死(肺結核)|
|俺は脳をやられた。もうだめだ|坂本龍馬|1867年12月10日|暗殺|
|天下の大事は、ひとえに岩倉公がおわれることを願う。よろしく伝えててくれ|中岡慎太郎|1867年12月12日|傷死|
|奸賊ばら!|伊藤甲子太郎|1867年12月13日|暗殺|
|徳川、&ruby(ばんせい){万歳};|川路聖謨|1868年4月7日|拳銃自殺|
|君の太刀取りにては何も申しおく事これなく、よろしく頼む|近藤勇|1868年4月25日|斬首|
|ああ婆さん、俺には斬れない、斬れないよ|沖田総司|1868年7月19日|病死(肺結核)|
|この重傷では入城できない。はやくわしの首を斬れ。|木村銃太郎|1868年9月15日|戦死|
|八十里 腰抜け武士の 越す峠|河井継之助|1868年10月1日|戦傷死(破傷風)|
|ちょっと昼寝をするでや|~|~|~|
|敵に首級を渡したくない|中野竹子|1868年10月10日|戦死|
|よしや身は 蝦夷が島辺に朽ちぬとも魂は東の君やまもらむ|土方歳三|1869年6月20日|戦死|
|すまん!|~|~|~|
|ああ うまかった((見舞いに来た宇都宮三郎と鰻の蒲焼きを食した後に喀血して急死))|柳川春三|1870年2月20日|病死(肺結核)|
|長らく心配をかけた。陛下より、このような有り難い仰せを受けた。元気だったら、東京に連れて行くのであったが、後のことは賞典禄もいただいているから心配するな。詳しいことは遺言書に書いてある。税所長蔵や篤満に頼んである。五代にもたのんである。|小松帯刀|1870年8月16日|病死|
|あら嬉れし行く先知れぬ死出の旅|大前田英五郎|1874年2月26日|病死|
|唯皇天后土のわが心知るあるのみ|江藤新平|1874年4月13日|斬首|
|思ひおく まぐろの刺身 鰒汁 ふっくりぼぼに どぶろくの味|新門辰五郎|1875年9月19日|病死|
|これまではいかい御苦労からだどのよびだしの声まつむしや秋の風|前原一誠|1876年12月3日|斬首|
|西郷よ、もういい加減にせんか|木戸孝允(桂小五郎)|1877年5月26日|病死(胃がん)|
|先生、許しゃったもんせ!|別府晋介|1877年9月24日((西南戦争))|戦死|
|晋どん、もうここらでよか|西郷隆盛|~|~|
|曇り無き 心の月の清ければ  千歳の秋も さやけかるらん|桐野利秋|~|~|
|無礼者!|大久保利通|1878年5月14日((紀尾井坂の変))|暗殺|
|おいのこつはよか。それより視察じゃ。調査に専念してたもんせ。|川路利良|1879年10月13日|客死|
|自分の父の葬式にかかった費用(三千円)を超過しないように!|岩倉具視|1883年7月20日|病死|
|腹張りて 苦しき中に 明烏|山岡鉄舟|1888年7月19日|病死(胃がん)|
|狼狽するなかれ、グッドバイ、また遭ふであらう。もう逝く|新島襄|1890年1月23日|病死|
|コレデオシマイ|勝海舟(安芳)|1899年1月19日|病死(脳溢血)|
|もう一度目が覚めるかな。それとも、これきり眠ってしまうのかな・・・|福沢諭吉|1901年2月3日|脳溢血|
|一昨年も国へ行きますと、自分が砲術を教えた子供の石碑が一番先に眼につきます|新島八重|1932年6月14日|病死|
*政治家・軍人 [#hb6dd48e]
|''言葉''|''人物''|''死亡年月日''|''死因''|
|俺を撃つとは、馬鹿な奴だ|伊藤博文|1909年10月26日|暗殺|
|靴でも脱げや、話をしようじゃないか|犬養毅|1932年5月15日|暗殺|
|九つのうち三つしか当らんようじゃ兵隊の訓練はダメだ|~|~|~|
|我ゆくもまたこの土地にかへり来ん 国に報ゆることの足らねば|東条英機|1948年12月23日|絞首刑|
|さらばなり苔の下にてわれ待たん 大和島根に花薫るとき|~|~|~|
|散る花も落つる木の実も心なき さそうはただに嵐のみかは|~|~|~|
|今ははや心にかかる雲もなし 心豊かに西へぞ急ぐ|~|~|~|
|できない理由を考えるのではなく|安倍晋三|2022年7月8日|暗殺|
*学者 [#ed125cc4]
*学者・思想家 [#ed125cc4]
|''言葉''|''人物''|''死亡年月日''|''死因''|
|不忠不孝渡辺登|渡辺崋山|1841年10月11日|切腹|
*僧侶・侠客 [#k6f6a03e]
|''言葉''|''人物''|''死亡年月日''|''死因''|
*小説家・脚本家・ジャーナリスト [#g6634ac1]
|''言葉''|''人物''|''死亡年月日''|''死因''|
|一、柳北の法号は、左のごとく致したし。文靖院 跡は和尚殿の随意、ただし中に柳北の二字を加うべし。一、棺は瓦棺よろし。白木の長持も関心致さず、葬儀は手軽に頼みます。一、柳北は神葬祭を痛く嫌う。もし死せば、仏葬にて本法寺代々の菩提所に葬ればよろし。もし碑を建つるなどということあらばそれこそ天王寺墓地の近傍なり。木母寺、長命寺いずれにても人のなすに任す。右に申す碑銘は、誰が書くも余は更に構わず。ただし本法寺に建つる石塔は小沢圭二郎に頼み、柳北先生之墓と書けば足れり。|成島柳北|1884年11月30日|病死|
*商人・実業家 [#i514eb04]
|''言葉''|''人物''|''死亡年月日''|''死因''|
|もう何も言はん、宜しきか|岩崎弥太郎|1887年2月7日|病死(胃癌)|
|長い間ご苦労だったな|田中平八|1884年6月8日|病死|
|私は帝国民としてまた東京市民として、誠意御奉公をして参りました、そして尚ほ百歳までも奉公したいと思ひますが、この度の病気では最早再起は困難かと思はれます、しかしこれは病気が悪いので私が悪いのではありません、たとへ私は他界しても、皆さんの御事業と御健康とを御祈し守護致します。どうか亡き後とも他人行儀にして下さいますな|渋沢栄一|1931年11月8日|病死(腸閉塞)|
*女性 [#zfa12916]
|''言葉''|''人物''|''死亡年月日''|''死因''|
|どうせ正気で 世渡りできぬ ままよ剣菱 鬼ごろし 盃洗の中にうかしたあの盃を 誰が水揚げするのやら|斎藤きち(唐人お吉)|1890年3月27日|入水|

*歌舞伎役者 [#zc2f59d0]
|''言葉''|''人物''|''死亡年月日''|''死因''|
*落語家 [#mb7185b6]
|''言葉''|''人物''|''死亡年月日''|''死因''|
*漫画家 [#c95af855]
|''言葉''|''人物''|''死亡年月日''|''死因''|
*芸能人 [#s2a3fb7e]
|''言葉''|''人物''|''死亡年月日''|''死因''|
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