幕末 のバックアップ(No.9)
幕末とは、日本の歴史において幕府の政権の末期を指す用語である。普通、19世紀中盤の日本の情勢を指して呼称する。ここでは、1841年から1877年にかけての社会変革について解説する。 歴史上の流れ
序盤戦
天保12年(1841年)、江戸幕府は老中に水野忠邦を就任させ、忠邦は「天保の改革」を行った。 中盤戦
老中の安藤信正は、公武合体政策推進の一環として、孝明天皇の妹・和宮親子内親王を許嫁の有栖川宮熾仁親王と別れさせ、将軍・徳川家茂に嫁がせる計画を練っていた。これが尊王攘夷派に知られてしまい、過激派に襲撃された信正は、背中に負傷したものの、命に別状はなかった。しかし、背中に負傷したことが「士道不覚悟」*4とされ、失脚を余儀なくされた。これが坂下門外の変の顛末である。婚礼は後に滞りなく行われ、和宮と家茂の結婚期間は家茂の夭折により短いものとなってしまったが、仲睦まじい夫婦であったという。 後半戦
長州はかつて関門海峡にて外国船を砲撃した報復として、英仏蘭米の攻撃を受け、敗北する(下関戦争)。ここに長州も、当時最強の兵器を前にした攘夷の無力さを痛感したのである。さらに、幕府は勅命を受け、長州勢を惨敗へと追いやった(第一次長州征伐)。 菊は芽が出る 葵は枯れる
慶応4年1月(1868年1月)、鳥羽伏見の戦いを機に新政府軍と旧幕府軍との「戊辰戦争」が勃発。当初は兵力の上では幕府側が有利であったが、新政府軍は有栖川宮熾仁親王を東征大総督に、仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍にそれぞれ任じ*11、岩倉具視の発案で「錦の御旗」を掲げる。これは、新政府軍を「官軍」とすることで、旧幕府軍が自動的に「賊軍」となってしまい、戦意を喪失させることとなった。この戦いで新政府軍は旧幕府軍に勝利。そのまま江戸に軍を進めていった。 そして明治へ…
ここに、日本は近代国家としてのスタートを切り始めた。 幕末に関する用語
攘夷…日本から夷狄、つまり外国人を武力で打ち 国際情勢
この頃、欧米諸国は帝国主義時代に突入していた。 幕末という呼称の理由
我が国の歴史では、鎌倉幕府、室町幕府、そして江戸幕府の3つの幕府が登場する。その中で、鎌倉幕府の滅亡時並びに室町幕府の滅亡時を「幕末」と称する例はほとんど皆無である。これは、鎌倉期及び桃山期は、幕府という組織が消滅していても武士が実権を握って跳梁跋扈していた時代であるが、19世紀末の日本の後半の情勢は天皇を中心とした政治体制に転向し、幕藩体制などの武家政権そのものが終焉を迎えたという意味を内包しているからであると推測される。 コメント
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