黒田如水 のバックアップ(No.7)

黒田如水は、戦国~安土桃山時代の武将である。本名は孝高で、如水は出家して以降の名称。現在は「黒田官兵衛」の名乗りでも知られる。
生没年:天文15年11月29日(1546年12月22日)~慶長9年3月20日(1604年4月19日)
出身:播磨国(兵庫県)

生涯 Edit

1546年、播磨の大名・小寺政職(こでら(おでら)まさもと)の家臣で、姫路城城代の黒田職隆の子として生まれた。少年期は父・職隆が主君への忠義の褒美として小寺の名字を賜ったことにより、小寺祐隆、更に小寺孝隆を名乗った。青年期には孝高と改名している。
数えで18歳の時に政職の近習として仕官し、弱冠22歳にして父の跡を継ぎ、姫路城城代に就任した。
30歳のころになると、播磨の情勢は不安定なものであった。孝高は黒田家ならびに小寺家を守るため、当時の有力者であった織田信長に仕官を申し出、それが認められると、信長の意向をもって播磨の平定を平和裏に行うことに成功した。
しかし、ここで思わぬ事態が発生する。1578年、後援にあたっていた織田家臣・荒木村重が毛利氏と結託して信長に反旗を翻したのである。孝高は信長に申し出て村重を説得しに有岡城に赴いたが、村重によりおよそ1年間幽閉されることとなった。これにより、信長は孝高も裏切ったと誤認して激怒し、孝高の愛息である松寿丸(のちの黒田長政)を処刑を羽柴(豊臣)秀吉に命じた。しかし、秀吉の家臣の竹中半兵衛は機転を利かせ、松寿丸の命を救った。のちに孝高への疑いが晴れ、松寿丸と親子の再会を果たすことができた際、信長は孝高に疑いをかけ、子の殺害を命じたことを謝罪している。なお、孝高が救出された際、半兵衛は病により、すでにこの世の人でなかった。
この1年近くにもわたる劣悪な環境下の幽閉により、頭に瘡ができて髷を結うことができなくなり、頭巾をかぶるようになったほか、足に障害が残ったため、杖を使わないと歩行が難しくなったという。
さらに、主君の小寺氏も毛利氏に寝返ったが、孝高は織田家に仕え続ける道を選んだ。これにより、一時的に孝高は主家とたもとを分かつこととなる*1。そうして、息子の命を救うきっかけを作ってくれた羽柴秀吉に従い、秀吉の専属参謀となって毛利攻めに従軍した。
やがて、毛利攻めの中、秀吉は本能寺の変の報せを受ける。うろたえる秀吉に、孝高はこのように提言した。
「これで、秀吉様の天下取りの道が開けましたぞ」
発奮した秀吉は山崎合戦で光秀を破り、四国征伐や九州征伐にも孝高を従軍させ、孝高のアドバイスのもとこれを成功させ、ついに天下人となった。「今日のわしがあるのは、孝高のおかげだがや!」とばかりに孝高もその働きを認められ、豊前国12万石の城持ち大名となった。しかし、前述の天下取りへの提言以来、秀吉は孝高を異常に恐れていた。豊前国を与えたのも、孝高の反乱を恐れ、なるべく遠ざけるためであった。つまるところ、褒賞を名目とした左遷である。同時期、孝高は剃髪して名を如水と改めた。
なお、他の秀吉家臣が「なぜ天下取りの立役者である孝高殿に100万石をお与えにならなかったのですか?」と秀吉に訪ねたところ、「おみゃーらは孝高のほんまの恐ろしさを知らんからだわ。あれに100万石ポンッと与えたらよぉ、あれぁすぐ天下を手中に納めてまうでよ」(著者意訳)と答えたとされる。また、慶長伏見地震で伏見城が倒壊した際、如水は秀吉を見舞ったが、秀吉は「わしゃあまだ死んどらんわ。残念だわの」と嫌味を吐き捨てたという。ただ、天正5年7月付の孝高宛ての書状に「おみゃーは弟の小一郎(秀長)と同じくらい頼りにしとるでよ」(著者意訳)とあるなど、仲たがいとは言えないが、まあ複雑な関係だったようだ。
1592年の文禄の役では、宇喜多秀家の軍監(作戦参謀)として出陣したが、加藤清正や小西行長が手柄を争って暴走し、まともに指揮が取れなくなったことに腹を立て、病と称して国に帰った。
やがて秀吉が死に、1600年には関ヶ原合戦が勃発する。関ヶ原にて西軍と東軍がにらみ合う中、如水は九州制圧を狙い、関ヶ原で疲弊した勝者を叩くことで天下の掌握をも狙っていた。しかし、関ヶ原合戦は一日で決着がついたため、計画はお流れとなった。一説には、この九州制圧は、万一東軍が優勝した場合、家康に取り入って自身の取り分の領地を少しでも多く得ようとしたのではないかともされる。この件で家康から尋問を受けたが、「これから天下をお治めになる家康様のために、九州の不届き者を討伐しておりました」とあきらかに見え透いた回答し、家康はこの回答をぁゃιぃと思っただろうが、それ以上問い詰めることはしなかったという。
東軍に属した息子・長政*2は調略をもって西軍を切り崩した功があり、筑前52万石を与えられた。そうして、「家康様は私の手を三べんも握って喜んで下さりました!」と嬉々として報告する長政に、如水はにやりと笑い「家康はお前の手のどっちを握った?」と聞いたところ、長政は「右手です」と答えた。如水はまたもにやりと笑い「その時お前の左手は何をしておった?」(なぜその時家康を殺さなかった)と言い放ち、長政はただ愕然とするしかなかったという。
晩年は福岡にて隠居し、近所の子供と遊ぶなど、穏やかな生活を送っていた。そのころには、なぜか見舞いに訪れた家臣に対してつらく当たるようになった。その家臣の訴えを聞いた長政が如水を諫めたところ、「これは芝居でやっとるんだ。家臣共は俺につらく当たられることで俺を嫌い、お前の代になることを望む者が多くなるだろう」と答えたという。これは、殉死者を出さないための如水なりの家臣に対する優しさであったと同時に、黒田家の存続のための策でもあった。幕藩体制発足時は、殉死は武士の最高の美徳とされる一方で、それによる御家断絶が大きな社会問題となっていたのだ。如水のこの努力は、黒田家の福岡藩は明治の廃藩置県まで続くきっかけを形作ったのである。え?2代藩主となった孫の忠之は藩を潰しかねないようなとんでもねぇ大騒動を起こしたって?忘れろ。
1604年、京都伏見で病没。享年59歳。後述するように、キリシタン大名であったためキリスト教式の葬式が営まれたが、その二十日後、長政により仏教式の葬儀も営まれている。

逸話 Edit

  • 小寺家臣時代に高山右近と知り合い、キリシタン大名となっている。洗礼名はドン・シメオン。
  • 築城の腕に優れ、中津城や福岡城、大坂城、広島城を築城したとされる。
  • 節約上手で、不要になったものを家臣に売買させる形で与えたり、梅干しのタネを庭に植えての木にしたり、野菜の切れ端を漬物にするなどしていた。
  • 一夫多妻制が当たり前だった戦国時代において、生涯一人の妻・(みつ)*3を愛し続けた。小寺家と袂を分かった後も、妻を離縁することもなかった。

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*1 ただ、小寺家への恩も忘れてはおらず、のちに、政職の息子である氏職を客分として黒田家に迎え入れている
*2 朝鮮出兵の際、石田三成による讒訴を受けて辛酸をなめることとなったため、三成を激しく恨んでいた
*3 主君・小寺政職の姪にあたる

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