蝦夷(エミシ(エゾ))とは、前近代の日本史において日本の東方・西方に住んでいた人々の総称である。古代には「エミシ」と読んだが、後代には「エゾ」と読み、北海道の先住民であるアイヌの人々をも指していうようになった。
古代史上は、現在の東北地方から新潟県北部にかけての地域を支配し、大和朝廷の支配に属しない人々を指して「エミシ」と呼称した。これは、当時の日本が中華思想をまねたものである。古くは「毛人」の字を当てたなぜこの字を当てたかという理由については現在も議論されているが、アイヌとの関連を見出す説もある。その使用例は、5世紀の中国の歴史書『宋書』倭国伝に、478年(順帝昇明2年)に倭王武*1が宋 (南朝)に援軍を要請する際に届けた上表文中の以下の記述である。 「昔ヨリ祖彌(そでい)*2躬(みずか)ラ甲冑ヲ環(つらぬ)キ、山川ヲ跋渉シ、寧処ニ遑(いとま)アラズ。東ハ毛人(えみし)ヲ征スルコト、五十五国。西ハ衆夷ヲ服スルコト六十六国。渡リテ海北ヲ平ラグルコト、九十五国。」(原文は漢文で、筆者が読み下しのために仮名を補った) 彼らは強大な戦力を有し、また金などの資源を有していた。そのため、朝廷はこの資源を得るために、幾度となくエミシに大軍を派遣して、大和朝廷政権の支配下に置こうとしたのである。大和朝廷が大軍を派遣するまでは、和人とエミシの関係は決して悪いものではなかった。平時には和人と交易を行い、昆布・馬・毛皮・羽根などの特産物と引き換えに、米・布・鉄器・工芸品を得ていた。しかし、大和朝廷が支配権を拡大するために大軍を派遣した以上、エミシとて自らの支配領域を守るために戦闘に応じざるを得なかった。エミシは、馬の生産や金の産出量の多い陸奥(現在の青森県)を拠点として経済力や戦闘力を高めていったのだが、朝廷は自身以外にも王権が存在していることを問題視したということもあり、彼らを朝廷の支配下に置こうとしたのである。 まず、647年には日本海側に渟足柵(ヌタリノサク(キ))、その翌年の648年には磐舟柵(イワフネノサク(キ))を設置し、防御力を高めた。 658年4月、阿倍比羅夫が水軍180隻を率いて蝦夷を討伐している。これ以降、一時的にエミシの反乱は終息を見せたのか、それに関する記録が途絶えている。そうして、659年には陸奥国が設置されることとなった。 708年には現在の庄内地方にあたる地域に出羽郡が設置されたことで、現地のエミシに反朝廷思想が生まれ、現地在住の和人にエミシが危害を加える事態が相次いだため、朝廷は軍を派遣して、この反乱を収めた。 724年には多賀城が出羽に置かれ、奈良時代から平安時代初期にかけて陸奥国府や鎮守府が設置され、ここが当時の東北地方における政治の拠点となった。 ただ、朝廷はエミシを殲滅させようとしていたわけではない。朝廷の支配に従う意を表明したエミシは「俘囚(フシュウ)」と呼ばれ、朝廷から食料などの援助や免税などの特権を受け、その代償として東北地方から移住させられた。それは、朝廷が俘囚の皇民化政策を図り、軍事力を保持するためであり、かつ俘囚が同族の者から「裏切り者」として制裁を受け、秩序が乱れることを防いだためであるとされる。 770年に光仁天皇が即位して以降、朝廷はエミシを支配下に置くため軍事政策を強化した。780年にはかつてエミシの族長で、官人となっていた伊治呰麻呂(コレハリノ(イジノ)アザマロ)が反乱を起こした。この理由は今も明らかになってはいないが、最も有力であるとする説は、朝廷内での待遇の差別によるものであるとする説が根強い。 789年には、阿弖流為(アテルイ)が胆沢にて遠征軍を打ち破っている。801年、征夷大将軍として坂上田村麻呂が派遣され、阿弖流為を降伏させた*3。802年には胆沢城を築き、さらに翌年には志波城を築いた。 こうして、エミシ征服の目的がほぼ達成されたことで、朝廷は穏健な体制への転換を図った。その後は、現地の朝廷官僚や、大和に帰順した俘囚の長たちが蝦夷の部族紛争に関与することなどにより、東北地方が朝廷の支配領域に組み込まれていったものと推測される。平安中期から後期にかけては東北地方一帯は戦乱の状態となった。安倍氏や清原氏はいずれも俘囚の末裔を名乗り、自らの支配の正当性を掲げて争ったが、安部氏が清原氏に滅ぼされ、時を同じくして源義家が東北地方へと移動し、清原氏の支配下にあった藤原清衡が義家の後援を受けて清原氏を滅ぼす。平安末期になると、蝦夷との血縁的・系譜的関係を主張する奥州藤原氏の支配が東北北端まで及ぶこととなる。 奥州藤原氏は清衡・基衡・秀衡の3代まで続き、東北地方に君臨し続けた。特に清衡の代で平泉は発展を遂げ、当時の日本で第二の都市となり、半ば独立国の様相を見せていたが、4代目当主泰衡の代で「源義経を庇護した」という名目で源頼朝に滅ぼされた。奥州藤原氏滅亡以降、東北地方は「エゾ」と呼ばれるようになった。鎌倉後期以降、エゾはアイヌの人々のことを指すようになり、このころからアイヌは日本との交易をおこなっていた。陸奥国の豪族である安東(安藤)氏が、幕府の執権・北条氏より蝦夷管領に任ぜられ、エゾの支配を行っていたという記録が残っている。 室町期になると、交易をめぐって和人とアイヌの間での抗争が相次いだ。武田信広という武将が蠣崎氏の婿養子となっていたが、1454年のコシャマインの乱の制圧の功により蠣崎氏を継ぐことを許された。さらに、その主人筋にあたる安東家から自立して蝦夷地の実質的支配者となり、慶広の代には豊臣秀吉と徳川家康に仕官し、蝦夷地の支配権や交易権の継承を許可された。そうして、義広は蠣崎から松前に改姓し、江戸時代以降、蠣崎氏改め松前氏は小碌ながらも「松前藩」として蝦夷地を支配下に置き、その支配は明治直前まで続いたのである。
中世以前のアイヌの共通点としては、本州に平安時代以前にエミシが在住していたであろう地域の名称が現在もなお残っているため、言語には共通する要素が散見されるものと推測される。ただし、エミシは製鉄技術を有していたが、アイヌの用いていた鉄はほとんどが輸入品であったという点や、エミシは馬の飼育で生計を立てていたことで知られているが、アイヌには明治まで馬を飼育するという習慣がほぼなかったという点では異なる。