総髪 のバックアップ(No.7)

総髪とは、日本の伝統的髪型である。

概要 Edit

伸ばした頭髪をオールバックにして撫で付け、後頭部に髷を作る。また、髷を作らずに後ろに撫で付けるタイプもあり、由井正雪*1や天一坊*2が後者の髪型で描かれることが多い。髪を結ぶ位置が高いものは、頭全体の様子が野菜の慈姑に似ているため、「慈姑頭」と呼ばれた。

歴史 Edit

室町時代までは公卿や武士はほとんどがこの髪型で、総髪の上に兜や烏帽子を被ることが習慣であった。ただ、戦闘が長期に及ぶと、兜を被っている部分が蒸れてきたり、ひどい場合は汗でかぶれ、化膿することもあった。一応、毛抜きで多少髪の毛を抜くこともあったが焼け石に水で、むしろ毛を抜いたことでそこから雑菌が入り、悪化することも多かった。最悪の場合は毛嚢炎になる可能性があり、毛嚢炎は今では市販薬で治りやすい病気だが、当時は死に至る病であった。例えば徳川家臣・榊原康政はこの病気がもとで亡くなっている。
そこで、戦国時代には前頭部を剃り、頭が蒸れるのを防いだ。これを月代(さかやき)という。例えば、織田信長は「信長の野望」などのフィクションでは総髪の茶筅髷で描写されることがあるが、肖像画を見ると月代を剃って折髷にしていることがわかる。
やがて、江戸時代になると、成人男性の証明として、月代を剃ることが習慣化され、総髪は若者や神官、公卿、町医者*3、学者、浪人など限定された髪型となった。平賀源内や前野良沢などの肖像画をご覧いただければご理解いただけるだろうが、月代ではなく総髪である。しかし、本草学者で「本草図譜」を著した岩崎常正は月代を剃っているが、それは彼の本業が旗本、つまり幕臣であったからである。
幕末の動乱期になると、再び総髪が大流行した。月代を剃ることがないため、少しでも時間を有効利用するためであった。
坂本龍馬や桂小五郎等の勤王志士、新選組の近藤勇、さらに将軍・徳川慶喜など、枚挙に暇がない。面白いのは、同じ幕臣でも小栗上野介や福沢諭吉が月代を剃っていたのに対し、勝海舟や山岡鉄舟は総髪であったことである。また、フィクションではしばしば月代で描写される徳川家茂だが、墓の中の家茂の遺体を解析したところ、黒々とした総髪頭であったという。
明治以降は散切り頭や西洋風の髪型が主流となり、総髪はほとんど見られなくなったが、現在でも髪の毛の手入れがしやすいという理由で総髪にする人はいる。

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*1 1605-1651。軍学者で、3代将軍・徳川家光の死去を境に幕府転覆をもくろみ、浪人の丸橋忠也とともに反乱を起こそうとしたが幕府に計画が漏れてしまい、潜伏先の駿府の宿屋で幕府軍に包囲され、自殺した
*2 ?-1729。山伏。8代将軍・徳川吉宗の落胤を名乗って浪人を集め、世間を騒がせたが、逮捕されたのちに斬首
*3 「御殿医」と呼ばれる官職についている医者は頭を剃り上げて丸坊主にする

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