日本史年表 のバックアップ(No.7)

このページでは、日本史の古代から現代にいたるまでの出来事を年表にまとめている。時代区分は、高校日本史の指導要領に拠った。古墳時代と飛鳥時代は、明確な時代区分が難しいので、「大和時代(古墳時代・飛鳥時代)」としてまとめた。また、室町後期、いわゆる「戦国時代」は項目を立てて独立化させ、江戸時代は「幕末」以前の出来事は「近世」の項目に組み込み、「幕末」以降の出来事は記事の冗漫化を避けるため「近代」の項に組み込んだ。

古代 Edit

旧石器時代・縄文時代 Edit

紀元前2万年頃現生人類が入植
紀元前3500年頃三内丸山遺跡に定住型の大規模集落が形成
紀元前1500年頃三崎山遺跡(山形県)において青銅刀が使用される
紀元前1000年頃亀ヶ岡遺跡などで遮光器土器が盛んに作られる

弥生時代 Edit

紀元前1000年頃菜畑遺跡(佐賀県佐賀市)や板付遺跡(福岡県福岡市)などでの水稲栽培の開始
紀元前300年頃吉野ケ里遺跡に大規模な環濠集落が形成される
57年倭の奴国王、後漢に遣使し、光武帝から印綬を受ける
107年倭の面土国*1の王・帥升*2が後漢に遣使
180年(推定)倭国大乱
239年邪馬台国の女王卑弥呼、魏に遣使し、金印紫綬を授かる
邪馬台国と狗奴国の抗争激化
266年邪馬台国の台与(とよ)*3が西晋に遣使

大和時代(古墳時代・飛鳥時代) Edit

4世紀中頃(推定)ヤマト王権の成立
369年百済の近肖古王が倭王に七支刀を献上
391年~404年ヤマト王権による朝鮮半島侵攻(第一次倭・高句麗戦争)
413年~5世紀末倭の五王(讃・珍・済・興・武)、中国の南朝に朝貢
464年ヤマト政権によるニ度目の朝鮮半島侵攻(第二次倭・高句麗戦争)
527年筑紫国造磐井(ちくしのくにみやつこいわい)の乱。物部麁鹿火(もののべのあらかひ)により鎮圧
538年(552年説あり)百済の聖明王、経典と仏像を献上(仏教公伝)。儒教もこのころ伝わったと推定される
540年伽耶問題*4で大伴金村が失脚
552年蘇我稲目と物部尾輿が崇仏争論を展開
562年伽耶(任那)が新羅により滅亡
587年丁未の変(蘇我馬子が物部守屋を滅ぼす)
592年崇峻天皇、蘇我馬子により暗殺
593年推古天皇(歴史上初の女帝)が即位。厩戸王(聖徳太子)の摂政開始
厩戸王、四天王寺を建立
600年史料上初の遣隋使派遣*5
603年厩戸王、冠位十二階を制定
604年厩戸王、十七条憲法を制定
607年小野妹子を隋に派遣する*6
厩戸王、法隆寺を創建
622年厩戸王死去
630年第1回遣唐使・犬上御田鍬を派遣
643年山背大兄王(厩戸王の子)、蘇我入鹿に滅ぼされる
645年中大兄皇子と中臣鎌足、蘇我氏の直系を滅亡させる(乙巳の変)。大化改新の嚆矢
646年改新の詔
660年百済滅亡。鬼室福臣(きしつふくしん)などの百済の王族の生存者や遺臣が日本に渡来
663年白村江の戦い。倭国軍が唐・新羅連合軍に惨敗し、朝鮮半島における倭の勢力圏の完全消滅。倭は唐・新羅からの侵攻に備えて西日本各地に大野城や水城(みずき)を設立)
668年高句麗滅亡。高句麗人が日本に渡来
中大兄皇子が即位。「天智天皇」として知られる
672年壬申の乱。天智天皇の甥・大海人皇子が即位。「天武天皇」として知られる。天智天皇の太子・大友皇子は敗戦後自殺
飛鳥京に遷都
683年頃富本銭の鋳造
684年八色の姓を制定
白鳳地震
694年藤原京に遷都
701年大宝律令の成立。倭国、国号を「日本」と定める*7

奈良時代 Edit

710年和銅3年平城京への遷都
712年和銅5年稗田阿礼らにより『古事記』成立
718年養老2年養老律令の成立*8
720年養老4年『日本書紀』成立
僧侶による社会事業が諸国で行われる。代表的な人物は行基
723年養老7年三世一身法
727年神亀4年渤海使が初めて渡来
729年神亀6年長屋王の変。長屋王、藤原4兄弟に館を襲撃されて妻子とともに自殺
729年天平元年聖武天皇の后に光明子(光明皇后)を冊立
735年~737年天平7~9年天然痘大流行。藤原4兄弟、天然痘により全員死去
740年天平12年藤原広嗣の乱
741年*9天平13年聖武天皇による諸国への国分寺・国分尼寺建立の詔
743年天平15年墾田永年私財法
752年天平勝宝4年東大寺大仏の開眼供養。聖武太上天皇も出席
754年天平勝宝6年唐出身の僧の鑑真、来朝して律宗を伝える
757年天平宝字元年橘奈良麻呂の乱
759年(推定)天平宝字3年(推定)『万葉集』成立
764年天平宝字8年藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)
765年天平神護元年道鏡、太政大臣禅師に就任
769年神護景雲3年宇佐八幡宮神託事件。和気清麻呂、左遷の上「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」に改名
784年延暦3年長岡京への遷都
788年延暦7年最澄が延暦寺建立

平安時代(院政以前) Edit

794年延暦13年桓武天皇、平安京に遷都
801年延暦20年坂上田村麻呂、阿弖流為を降伏させ蝦夷を平定
805年延暦24年藤原緒継と菅野間道のあいだで徳政相論が行われる。桓武天皇、蝦夷征討と平安京造都を停止
810年弘仁元年蔵人所設置
薬子の変。平城上皇と嵯峨天皇が対立するが、平城上皇が出家して決着。平城上皇の妾の藤原薬子は服毒自殺、その兄の仲成は射殺
816年弘仁7年空海が金剛峯寺を建立
このころ検非違使を置く
833年天長10年令義解の撰上
842年承和9年承和の変。藤原良房、伴健岑(とものこわみね)橘逸勢(たちばなのはやなり)を陥れてそれぞれ隠岐、伊豆へ配流。藤原氏による他氏排斥の始まり
858年天安2年藤原良房、人臣として初めて摂政となる
866年貞観8年応天門の変。大納言・伴善男(とものよしお)が「応天門への放火は左大臣・源信(みなもとのまこと)の犯行である」と告発したが、密告により放火の真犯人が伴善男父子とみなされ、流罪となる
869年貞観11年貞観地震
887年仁和3年藤原基経、関白となる
仁和地震
888年仁和4年阿衡の紛議。藤原基経、「詔勅中の『阿衡』の職務は名ばかりの実務がともなわない職」と宇多天皇に抗議し、一切の職務を放棄。宇多天皇は詔勅を撤回して両者の間に和解が成立
893年(推定)寛平5年(推定)初めて滝口の武士を置く*10
894年寛平6年菅原道真の提言により遣唐使を廃止する*11
901年昌泰4年昌泰の変。菅原道真、藤原時平の讒言により大宰権帥に左遷される
905年延喜5年『古今和歌集』成立
927年延長5年延喜式の撰上(施行は967年(康保4年)から)
935年承平5年平将門、伯父の平国香を討つ(承平の乱)
937年承平7年平将門の追捕を命じる官符を下す
939年天慶2年平将門の乱。将門、自らを「親王」と名乗る
939年天慶2年藤原純友*12の乱(天慶の乱)
940年天慶3年平貞盛(平国香の遺児)・押領使藤原秀郷ら、平将門を討つ
941年天慶4年押領使源経基・追捕使小野好古ら、藤原純友を討つ
969年安和2年安和の変。源満仲らの謀反の密告により左大臣・源高明が失脚。これ以降、摂政・関白が常置
988年永延2年尾張の郡司・百姓ら、国守藤原元命の非政を訴える
1000年~1014年頃長保2年~長和3年頃清少納言の『枕草子』、紫式部の『源氏物語』が成立
1017年寛仁元年藤原道長、太政大臣に就任
1019年寛仁3年刀伊の入寇
1028年長元元年平忠常の乱。東国に河内源氏が進出
1051年永承6年前九年の役。安倍氏滅亡
1069年延久元年延久の荘園整理令。記録荘園券契所が設置される
1073年延久5年院の蔵人所を設置
1083年永保3年後三年の役。清原氏滅亡、奥州藤原氏の台頭

中世 Edit

平安時代(院政以降) Edit

1086年応徳3年白河上皇、院政を開始*13
1098年承徳2年源義家、昇殿を許される。初めて武士が殿上人となる
1108年天仁元年源義親の乱。義親、平正盛に討たれる
1132年長承元年平忠盛(清盛)、昇殿を許される
1156年保元元年保元の乱。朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分かれ争う。後白河天皇方が勝利し、崇徳上皇は讃岐に配流
1159年平治元年平治の乱。平清盛、源義朝を破る*14
1167年仁安2年平清盛、太政大臣に就任
1169年(1179年説あり)仁安4年後白河法皇、『梁塵秘抄』を著す
1173年承安3年平清盛、日宋貿易を開始。公式的な国交ではなかったが、商人間の交易が続くこととなった
1175年承安5年法然が専修念仏を唱え始める
1177年治承元年鹿ケ谷の陰謀。会合に居合わせた源氏の武士・多田之綱が平清盛に密告したことで露見。後白河法皇、謀反船頭のかどで幽閉さる。藤原成親は一旦は助命されて備前国に配流されるが、崖から突き落とされて死亡。西光(藤原師光(ふじわらのもろみつ))は拷問の上斬首。僧・俊寛は鬼界ヶ島に配流され、自ら絶食して死ぬ
1180年治承4年4月以仁王、平家追討の令旨を発し、源頼政らとともに挙兵するが失敗
治承4年6月福原行幸
治承4年8月石橋山の戦い。源頼朝、伊豆国で挙兵するが惨敗
治承4年10月富士川の戦い
1181年治承5年1月平清盛による南都焼討
1183年寿永2年5月倶利伽羅峠の戦い。木曽義仲挙兵
寿永2年11月水島の戦い
1184年寿永3年1月宇治川の戦い
寿永3年2月一ノ谷の戦い。源義経ら、摂津国福原で平家軍に大勝
寿永3年頼朝、鎌倉に公文所・問注所を置く
1185年寿永4年2月屋島の戦い
寿永4年3月壇ノ浦の戦い。平家滅亡。安徳天皇入水

鎌倉時代 Edit

1185年文治元年源頼朝、文治の勅許を得て、諸国に守護と地頭を設置
1189年文治5年閏4月源義経、庇護を受けていた奥州藤原氏四代目・泰衡からの襲撃を受けて衣川の館で戦死
文治5年7月~9月源頼朝、奥州藤原氏を滅亡させる
1192年建久3年源頼朝、征夷大将軍に任ぜられる
1199年建久10年源頼朝、急死。家督を長男・頼家が継承
頼家、左中将・鎌倉殿就任
十三人の合議制発足
梶原景時、失脚
1200年正治2年梶原景時の変(景時敗死、梶原氏滅亡)
1202年建仁2年阿野全成*15、比企能員の策謀で甥の頼家により斬首刑を宣告される
1203年建仁3年比企能員の変(能員謀殺、比企氏滅亡)
源頼家、伊豆修善寺に幽閉される
頼家の長子の一幡、殺害される
1204年元久元年源頼家、暗殺される
頼朝の三男の千幡、源実朝と改名し鎌倉殿就任
1205年元久2年畠山重忠の乱
牧氏事件(北条時政失脚、妻の牧の方とともに伊豆に流罪)
牧氏事件の首謀者の平賀朝雅(牧の方の娘婿)、幕府に討たれる
1213年建暦3年泉親衡の乱
和田合戦(和田義盛敗死、和田氏滅亡)
1214年建保2年実朝、陳和卿*16とともに大船造立、渡宋を計画(失敗)
1215年建保3年北条時政、伊豆にて病没
1218年建保6年北条義時、薬師堂建立
1219年建保7年源実朝、鶴岡八幡宮にて甥の公暁に討たれる。源氏将軍断絶。源仲章、公暁に北条義時と誤認されて討たれる
公暁、三浦義村に謀殺される
1221年承久3年後鳥羽上皇、北条義時追討の院宣を出す。北条政子の演説
承久の乱。幕府方の圧勝。後鳥羽上皇は隠岐島へ、土御門上皇は土佐へ、順徳天皇は佐渡へ流される。六波羅探題の設置
1224年元仁元年北条義時、急逝(毒殺説あり)
1225年元仁二年伊賀氏の変*17。連署の設立
1226年嘉六2年九条頼経が征夷大将軍に就任。摂家将軍の始まり
1232年貞永元年北条泰時、貞永式目(御成敗式目)制定
1246年寛元4年宮騒動
1247年宝治元年宝治合戦。三浦氏滅亡
1249年建長元年引付衆の設置
1252年建長4年将軍頼嗣を京へ送還、宗尊親王が将軍に就任。宮将軍の開始
1260年正元2年琉球王英祖が即位?
1266年文永3年・至元3年フビライ、「大蒙古国皇帝奉書」とともに国交の使者を送る。以降5回にわたって国書を送付
1268年文永5年北条時宗、執権就任
1272年文永9年二月騒動
1274年文永11年文永の役。1度目の「元寇」
1275年健治元年大宰府に派遣された元の使者・杜世忠(とせいちゅう)らが鎌倉に護送されたのち、龍ノ口にて斬首
1281年弘安4年弘安の役。2度目の「元寇」
1285年弘安8年霜月騒動

南北朝時代 Edit

南朝 Edit

北朝 Edit

室町時代 Edit

戦国時代 Edit

近世 Edit

安土・桃山時代 Edit

江戸時代(幕末以前) Edit

近代 Edit

江戸時代(幕末) Edit

明治時代 Edit

大正時代 Edit

昭和時代(戦前) Edit

現代 Edit

昭和時代(戦後) Edit

平成時代 Edit

令和時代 Edit

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*1 のちの伊都国。現在の福岡県糸島市近辺に相当するとされる
*2 中国の記録に登場する最初の日本人
*3 壱与(いよ)とも。卑弥呼の宗女、いわゆる血縁者。彼女に関する記録はこの西晋への朝貢のみである
*4 伽耶地域の割譲の際、大伴金村が百済側の使者から賄賂を受け取ったという疑惑が生じた
*5 「隋書」には多利思北孤(タリシヒコ)という人物が初の遣隋使として記載されているが、この「多利思北孤」は蘇我馬子説や厩戸王説があり判然としていない
*6 この時の国書の「日出処天子」という文面が皇帝・煬帝を怒らせることとなったが、当時の隋は外患を多く抱えており、倭が高句麗と同盟を結んで戦争を勃発させることを恐れたので、倭の非礼を許し、答使として裴世清を派遣した。立場上、裴世清は小野妹子より低位であったので、煬帝なりのヤマト政権への意趣返しである
*7 「日本」の国号を示す文字は、推古朝の木簡にもみられる
*8 実施は757年(天平宝字元年)から
*9 一説に738年
*10 この頃の「武士」は、現在で言うところの警備員に近い職である
*11 この頃の唐は安史の乱や近隣勢力の台頭により弱体化し、治安も悪化していた
*12 瀬戸内海で海賊行為を行っていた
*13 現在、高等学校の指導要領では院政の開始を中世の開始とする向きが強い
*14 義朝は家臣の邸宅に逃げ込んだところを、恩賞に目がくらんだ家臣にだまし討ちにされて殺害される。頼朝は流罪、義朝の側室・常盤御前は清盛の妾となり、今若(阿野全成)、乙若(義円)、牛若(義経)は長じてのちは寺に預けるという条件のもと助命
*15 頼朝の異母弟。幼名は今若。義経(牛若)や義円(乙若)は同母弟
*16 南宋からの渡来僧
*17 義時の後妻・伊賀の方が実子・政村を擁立し、義時の長男・泰時の家督継承を不服としてクーデターを起こした事件

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