総髪とは、日本の伝統的髪型である。
伸ばした頭髪をオールバックにして撫で付け、後頭部に髷を作る。また、髷を作らずに後ろに撫で付けるタイプもあり、由井正雪*1や天一坊*2が後者の髪型で描かれることが多い。
室町時代までは公卿や武士はほとんどがこの髪型で、総髪の上に兜や烏帽子を被ることが習慣であった。ただ、戦闘が長期に及ぶと、兜を被っている部分が蒸れてきたり、ひどい場合は汗でかぶれ、化膿することもあった。一応、毛抜きで多少髪の毛を抜くこともあったが焼け石に水で、むしろ毛を抜いたことでそこから雑菌が入り、悪化することも多かった。最悪の場合は毛嚢炎になる可能性があり、毛嚢炎は今では市販薬で治りやすい病気だが、当時は死に至る病であった。例えば徳川家臣・榊原康政はこの病気がもとで亡くなっている。 そこで、戦国時代には前頭部を剃り、頭が蒸れるのを防いだ。これを月代(さかやき)という。例えば、織田信長は「信長の野望」などのフィクションでは総髪の茶筅髷で描写されることがあるが、肖像画を見ると月代を剃って折髷にしていることがわかる。 やがて、江戸時代になると、成人男性の証明として、月代を剃ることが習慣化され、総髪は若者や神官、公卿、医者、学者、浪人など限定された髪型となった。平賀源内や前野良沢などの肖像画をご覧いただければご理解いただけるだろうが、月代ではなく総髪である。しかし、本草学者にして、「本草図譜」の作者の岩崎常正は月代を剃っているが、それは彼の本業が旗本、つまり幕臣であったからである。 幕末の動乱期になると、再び総髪が大流行した。月代を剃ることがないため、少しでも時間を有効利用するためであった。 坂本龍馬や桂小五郎等の勤王志士、幕臣の勝海舟、新選組の近藤勇、さらに将軍・徳川慶喜など、枚挙に暇がない。 明治以降は散切り頭や西洋風の髪型が主流となり、総髪はほとんど見られなくなったが、現在でも髪の毛の手入れがしやすいという理由で総髪にする人はいる。