松永久秀は、戦国武将の一人である。戦国時代を取り扱う作品では悪役とされることが多い。
生没年:不詳~1577年*1 出身:大和国
かつて織田信長は、久秀をこのように評価している。 「この男は、奈良東大寺を焼き払う、将軍足利義輝を暗殺する、主君に牙を剥くといった3つの悪を成し遂げたとんでもない男だ」 では、久秀はいかなる人物であったろうか?
記録が乏しいため、幼少期ならびに青年期の久秀の動向は不明だが、1540年時点では畿内・阿波国(徳島県)の戦国大名・三好長慶に仕官している。この主君のもとで、久秀は着々と戦力や権力を身につけていき、大和の支配者となった。 その後、長慶は愛息の義興や弟の安宅冬康、同じく弟の十河一存が相次いで亡くなったことにより精神的なショックを受け、そのまま病死してしまう。久秀を題材とした作品では、長慶の親族が相次いで亡くなった背景には必ず久秀が一枚噛んでいる、とされていたが、現在ではこの説を否定的に見る意見が多くなっている。 主君亡きあとは、長慶の甥で当主の三好義継がまだ若年であったためこれを補佐し、義継の後見役であった三好三人衆と時には協力し、時には争うという複雑な関係を築いていた。この最中、奈良東大寺が焼失する事件が発生している。出火の原因は不明だが、三好三人衆の陣から小火騒ぎになり燃えた後、「自分がやった」と喧伝したとも言われている。
1565年5月には義継と三好三人衆、嫡子の久通が14代将軍・足利義輝の邸宅を襲撃し、これを殺害している。この事件は近年までは久秀が主犯格であるとされてきたが、現在の研究では否定されつつあり、そもそも現場にすらいなかったとされている。むしろ、久秀は久通に対し、「将軍を暗殺するなんてバカな真似はよせ」と必死に説得していたと言う。このとき、久秀は僧侶となっていた後の15代将軍・足利義昭を監禁していたという。軟禁とはいっても、許可なく外出することを禁止するくらいの軽い「軟禁」というべきもので、久秀はこの際に、「あなた様の命は私がお守りします」と約束していたという。 1568年、義昭に庇護を求められた尾張の織田信長が義昭を奉じて上洛する際に三好三人集を撃退し、このとき久秀も『九十九髪茄子茶入』という茶器を献上し降伏した。これにより、信長に本領・大和国を安堵された。
名目上は「将軍・足利義昭」という肩書を持つが、所詮は信長の傀儡政権にすぎないことを察知した義昭は各地の大名に「信長を討て」と命ずる書状を送った。それはもちろん、久秀に対してとて例外ではなかった。次第に将軍との対立を深めていく信長に思うところのあった久秀もこれに呼応し、信長を攻撃する計画を練っていたが、1573年に包囲網を形成する大名の中で強大な力を誇っていた甲斐の武田信玄が病死したことで包囲網は崩壊し、義昭は都を追放されて備前鞆の浦に移住し(室町幕府滅亡)、久秀も信長に降伏した。このとき、信長は意外にも久秀の謀反の罪を不問に付している。
1577年、越後の上杉謙信が上洛する噂が流れると、またも信長に反旗をひるがえし、一向衆とともに大和の信貴山城に籠城した。この際信長は「何か不満があるなら遠慮なく打ち明けてくれ、必ず改善するから」という趣旨の書状を送っているが、久秀は完全に無視して籠城体制を崩さない。 これにより完全に怒った信長は大軍を率いて大和に攻め込んだ。ただ、やはり信長としてもまだ久秀に未練に似た感情があったのだろう。「平蜘蛛を差し出せば、命は助けてやるし、今回の謀反もなかったことにする」。これは、信長による久秀への最後通牒であった。 しかし、久秀はこの最後通牒すら無視し、平蜘蛛の中に爆薬を詰めて信貴山城に火をつけ、火が燃え移った茶釜もろとも己が身を砕いた。 現在は爆死というのは後世の創作であるとされ、戦後の文豪である坂口安吾は『堕落論』のなかで「燃え盛る城のなかで顔を鉄砲で打ち砕いて死んだ」と述べている。いずれにせよ、久秀は戦火で炎上する信貴山城と運命をともにしたのである。