徳川家康 のバックアップ(No.5)

徳川家康とは、戦国時代から江戸時代初期の三河国の大名、江戸幕府初代将軍である。

生没年1543(天文12)-1616(元和2)
出身地三河
松平広忠
於大
築山殿、西郷局、阿茶局など
子女松平信康、亀姫、秀忠、義直、頼宣、頼房など

少年時代 Edit

1543年、三河岡崎城城主・松平広忠とその妻・於大の長男として生まれる。幼名は竹千代といった。
3歳(以下、数え年)の1544年、於大の兄で家康から見て母方の叔父にあたる水野信元(?~1578)が今川氏を離反して織田家に臣従したため、広忠は今川氏との関係を配慮し、於大と離縁した。これにより、竹千代は母親と生き別れになってしまった。
6歳の時に今川家に人質に出されるも、家臣の戸田康光の裏切りで尾張の織田信秀に引き渡されて人質となった。この頃、幼き日の信長に会っており、親交があったという。
2年後には父・広忠が殺害され、ほどなくして今川家が安祥城を攻め、ここで今川家が人質に取っていた織田信広(信長の兄)と人質交換が行われ、竹千代は身柄を今川家に引き渡された。時の当主・今川義元は人質であるにもかかわらず竹千代を手厚く保護し、自身の名の「元」の字を与えており、竹千代は、16歳の時に元服してからは「松平元信」(ほどなくして元康に改名)と名乗った。さらに、今川家臣の関口氏の娘・瀬名と結婚し、信康と亀姫の2子を設けている。しかし、人質であるという身分は動かしがたく、今川家に従属する松平家臣団は堪え難きを耐え、忍び難きを忍ぶという生活を余儀なくされていた。
元康が18歳の時、元康の運命を大きく変える出来事が起こる。桶狭間合戦で、当主の今川義元が戦死したのである。元康は今川方の先鋒として出陣していたが、義元戦死の知らせが届くや否や、急いで岡崎城に帰還した。その後、今川家は嫡男の氏真が継ぐこととなったが、義元亡き後の今川家は力を失っていたのであった。元康は水野信元の説得を受け、1562年、織田信長と同盟を組んだ。清州同盟である。信長との同盟の直後、元康は名を「松平家康」と改めた。

織田家臣時代 Edit

信長との同盟の翌年、三河一向一揆が発生し、一向宗徒の家臣の大半に背かれることとなる。しかし、一揆発生から半年ほどで一揆側との和議を結び、離反した本多正信や夏目広次などの家臣たちには投降したうえで、改宗する事を条件に帰参を許した。夏目広次はすぐに起算したものの、本多正信はしばし流浪の旅をつづけ、姉川合戦ごろにはひょっこり戻ってきたといわれる(本能寺の変後の説あり)。
その後は東三河豪族たちを臣従させ、買いの武田信玄と同盟を結び、1568年には今川氏真に降伏を促し、遠江を平定する。その後、三河守への叙任を勅許により成功させ、「徳川家康」を名乗るようになった。
やがて、遠江平定後は浜松城に本拠を移す。その後は織田の同盟軍として姉川の戦いに参戦。寡兵ながらも猛将・榊原康政や本多忠勝らの働きによりこれを打ち破った。
織田・武田間の軍事同盟の崩壊に伴い、次第に武田家との関係も悪くなっていった。1573年、三方ヶ原の戦いが発生する。当時、徳川家にとって遠江は心臓にあたる部分だった。そこを武田軍に襲撃されれば、徳川家はひとたまりもなく、また同盟相手の信長にも包囲網が形成され、危険な状態であった。しかし信玄は、浜松城を素通りして進軍していた。この武田軍の行動に嘗められたと感じた徳川軍は勇猛にも武田軍に突っ込んでいったが、これは信玄の罠で、徳川軍はその罠にまんまと引っかかったのである。
案の定、家康は当時最強の武田軍に惨敗し、織田軍からの援軍など多くの犠牲を払いながらも命からがら本拠地に戻っている。この際、本多忠勝の叔父の忠実や夏目広次などの古株の家臣を失っている。
家康は武田軍のさらなる出撃に供えていたが、武田軍が襲撃してくることはなかった。むしろ撤退を急いでいる様子であった。この三方ヶ原の戦いののち、信玄は病により、すでにこの世の人ではなかったのである。武田家の次の当主は、勝頼が受け継いだ。
1575年の長篠・設楽原の合戦では織田軍と連携して武田勝頼の騎馬軍団を打ち破る。これにより、家康は武田軍に敗北するという汚名を返上したのだった。
1579年、嫡男・信康と正室・瀬名(築山殿)に武田勝頼と内通しているという疑惑がかかった。家康は信長の命令により、泣く泣く両名の処分を余儀なくされた。家康は、両名の処分を生涯後悔していたという。しかし、現在は信長は家康に両名の殺害を命じたわけではなく、「俺はこの件について何も言わんから、お前の思うとおりにしろ」と発言しており、両名にしても実際に武田家に内通していたという説や、家康と信康の親子関係が悪化していたのが殺害に至った原因であるという説が主流になりつつある。
やがて、1582年春、信長は勝頼を天目山で打ち滅ぼす。ここに、武田家は滅亡した。最大の脅威がなくなったことでつかの間の平穏が織田家・徳川家に訪れ、信長にすすめられて家康は堺の観光旅行を楽しんでいた。そこに、家康を仰天させる知らせが届く。
京都本能寺で、信長が家臣の明智光秀の寝返りにあい、横死したのである。
家康はこのとき、わずかな供回りの家臣しかいなかったので、明智光秀の侵攻を受けて自害するということも一時は考えたが、伊賀忍者を率いる服部半蔵ら家臣の説得や伊賀忍者の多羅尾光俊の助けを得て、伊賀から伊勢へ抜ける山道を突破、三河への脱出に成功する。世に言う「神君伊賀越え」である。この時、旧武田家臣で長篠合戦以降は徳川家に仕えた穴山梅雪が家康の身代わりとなって光秀軍に討たれている。
三河に帰還してからは京に向かおうとしたが、京都山崎で光秀が羽柴秀吉に討たれたという知らせが届くと、家康は買いや信濃に赴き、武田家の旧臣を召し抱えることに成功した。

豊臣政権下 Edit

やがて、明智光秀を滅ぼし、賤ケ岳合戦で柴田勝家も打ち滅ぼし、力を掌握していた秀吉は信長の同盟相手であった家康と対立し、ついに小牧・長久手の合戦で干戈を交えることとなった。
この戦の発端は、織田信長の3男・信雄が賤ケ岳の戦い以降、秀吉の専横ぶりを目にし、自身が初戦は秀吉の傀儡に過ぎないことに気が付き、秀吉を討つにあたって家康の協力が必要であると家康に泣きついたことであった。
大軍を擁する秀吉を相手に局地戦で圧倒し、勝利は確実に見えたが、事の発端である信雄が秀吉に謝罪して単独講和を結んだことにより、兵を退却させることを余儀なくされた。これにより、戦闘は膠着状態に陥った。
とはいえ、この戦闘において家康は「あれだけの大軍を率いた秀吉に勝利した」と称賛されていた。
当然、秀吉としては面白くないわけである。再度、秀吉は家康を攻めようとしたが、天正大地震が発生し、もはや戦闘どころではなくなってしまった。秀吉は、一度軍事的な攻撃を中止し、懐柔策をとることにした。自らの年老いた母親や妹を家康に人質として送り、家康に上洛の石を引き出させようとした。しかし、秀吉はこの時点ではまだ無位無官の武将に過ぎなかったため、朝廷に取り入って僅か一年程で従一位の位を手にし、ついには関白にまで上り詰めた。
関白の命令とあらば、当時従三位だった家康も逆らうわけにはいかず、上洛して秀吉の家臣となるよりほかなかった。
ただ、秀吉もバカではない。家康は長いこと上洛を拒んできたわけだから、もしうっかり反乱でも起こされてはたまったもんじゃない。そこで、秀吉は1590年の小田原攻めの後、家康や三河家臣団に旧北条亮の関東への転封を命じた。そうはいっても、反発心を起こされてはこの先の政務の雲行きも怪しくなる。その代償として、石高の上ではおよそ100万石の加増をした上、「石高の自己申告」等の異例の好待遇を行い、ある程度の自由な経営も認めていた。
当時の関東は反豊臣派の浪人が点在していたうえ、湿地帯でお世辞にも良い環境とは言えなかった。そこで家康は、自らを源氏の正当な末裔と名乗り、浪人たちを手懐けることに成功した。さらに当時ほぼ荒廃しかかっていた江戸に目をつけ、伊奈忠次の協力を得て、江戸の町づくりに専念した。
こうして、秀吉の治世が続く中、家康は秀吉に忠実に仕え(るフリをし続け)、その結果高い発言力や地衣を持ち、じわじわと力を増していく。そうして、秀吉も家康が自身に対する忠誠心が心からのものではないことに気が付いていながらも、高い官位どを餌に忠実に仕えさせていた。まさしく狐と狸、いや猿と狸の化かし合いである。
やがて、家康のターンが訪れる。1598年、二度目の朝鮮出兵の失敗に意気消沈した秀吉が、この世を去ったのである。

関ヶ原 Edit

秀吉が亡くなってからというもの、官僚政治を目指す文治派・石田三成と、秀吉子飼いの武断派・加藤清正の対立のように、豊臣家は内部分裂を引き起こしていた。
そこに家康はうまくつけ込み、「私が互いの利益が損なわれないように解決してやるから、ここは私の言うことを聞け」と恩を売って自らの味方を増やしていった。その間、家康は自身の子女を伊達家などに嫁がせ、ますます発言権を強めていく。しかし、大名家間の私的な婚姻は秀吉の時代には違法で、必ず秀吉(秀吉亡き後は秀頼)を通じて取り決めねばならなかったのである。家康のこのやり口にもろに反発したのが、石田三成である。三成は五奉行の構成員である前田玄以や増田長盛とともに家康の行動を問いただすが、のらりくらりと交わされてしまった。
秀吉の旧友で五大老の一人の前田利家は家康と三成のストッパーとなっていたが、秀吉の死のおよそ翌年に後を追うようにこの世を去る。これにより、家康はますます自らに権力を集中させていくこととなる。
1600年、石田三成は毛利輝元を総大将に奉じて挙兵。関ヶ原合戦の火ぶたが、ここに切って落とされた。当初は三成軍が優勢であったが、小早川秀秋の裏切りにより、戦局は逆転。小早川隊が大谷吉継軍になだれ込んでからは西軍は総崩れとなり、決着はわずか一日でつき、家康の勝利に終わった。
従来では、家康軍が小早川軍に脅しで鉄砲を打ち込み、おののいた小早川軍が裏切りを決意した…といわれてきたが、これは江戸時代の軍記物語の創作であるという見解が強まっている。とはいえ、わずか18歳の青年の行動が日本の未来を決定づけたという事実は動かしがたい。

将軍 Edit

1603年、家康は征夷大将軍に就任した。ここに、江戸幕府が樹立した。この状況は、日本に豊臣家と徳川家という最高権力者が並び立つという事態を意味していた。ただ、このころは家康に豊臣家を潰すという気はまだなく、孫娘の千姫を秀頼に嫁がせるなど、懐柔策をとっている。2年後には三男、秀忠に将軍職を譲渡。名目上は隠居の身となったが将軍職譲渡後も実権を握り続け、「大御所」として政治を行い続けた。これは将軍職を世襲にすることで、豊臣家に天下を返すつもりはないという意思を明確に示す意図があった。
このことに対し、秀頼の母・茶々は激怒した。家康の将軍就任は、茶々は、まだ幼い秀頼を補佐するためのことであると勝手に考えていたからである。しかし、将軍職が秀忠に譲られることで、豊臣家は一介の大名でしかなくなってしまったのだ。
この家康の行動に、「秀頼様こそ正当な天下人だ」と考える大野治長ら豊臣家臣も激怒し、豊臣家と徳川家がにらみ合うこととなる。一時は「西は豊臣、東は徳川の分割統治」や「大坂城を出て豊臣家が一大名として徳川に降る」といった穏当な案が出たとも言われるが、最終的には茶々がそれらのすべての要求をはねのけ、交渉は決裂。
1614年、家康も豊臣家を討つ準備にかかっていた。当初は家康としても、なるべく豊臣方と争うことを避けようとしていたが、会談が決裂して以降は豊臣家との戦闘もやむなしと考え、豊臣家との合戦の大義名分を考えあぐねていた。それを家康に入れ知恵したのが、金地院崇伝である。
秀頼が父・秀吉が建立した方広寺を再建する際に、鐘に刻まれた銘文に「国家安康 君臣豊楽」とあり、その銘文が「家康の名を引き裂いて呪い、豊臣を楽しみとする」という意味であると、豊臣方に苦情を申し出た。当然豊臣方はこれを否定したが、家康は当然聞き入れるはずもなかった。
この方広寺の鐘銘事件より3年前、家康は二条城にて秀頼と面会している。家康は秀頼の様子を「賢そうな青年であった」と証言しており、一説にはそこから秀頼特有のカリスマ性を感じ取り、豊臣家が徳川家にとって脅威となることを恐れ、豊臣家討つべしと考えを改めたといわれる。
大坂冬の陣では木津川口・今福・鴫野・博労淵などの局地戦で勝利を重ねたが、真田幸村との戦いでは敗戦を喫した。とはいえ、全体的には優勢で、最終手段として大阪城に大砲を数発撃ち込んだことで、恐れをなした茶々が降伏を申し出た。こうして、豊臣方と徳川方は一度は和解した。
とはいえ、豊臣家の底力を知っていた家康は、和睦締結後に大阪城の内堀までを埋め立てた。これにより、大阪城はほぼ丸裸となった。
この頃になると、豊臣方は茶々や大野治長らの主戦派と、片桐且元らの恭順派に分裂していた。主戦派は恭順派の追放を行い、埋め立てられた内堀などを掘り起こそうとしたが、これが徳川方に「合戦を起こそうとしている」とみなされてしまい、徳川方は最後通牒として、大坂城内の浪人の追放と豊臣氏の移封を要求した。その要求もはねのけられ、1615年、大坂夏の陣が勃発。
この戦闘は徳川方の圧倒的有利に進み、各局地戦で徳川方は大勝を収めた。落城寸前まで抵抗を続けた為に、秀頼や茶々は降伏を認められず、自害して果てた。ここに、豊臣家は滅亡した。
後の憂いを除くため、徳川将軍家の権力を盤石にするため、家康は大坂の陣直後に禁中並公家諸法度、武家諸法度、一国一城令を制定した。名実ともに、完全に徳川将軍家が日本の支配者となった。
1616年6月、家康は駿府で死去した。享年74歳。死後、3代将軍の孫の家光*1により「東照大権現」として神格化され、日光東照宮に合祀された。

逸話 Edit

子だくさん Edit

合計すると男子11人、女子5人。秀忠以降の直系の子孫は「徳川宗家」と「御三家」といい、それ以外の一族は「親藩」の扱いを受けた。
長男・松平信康
将来を嘱望されていたが、武田家内通の嫌疑がかかり、母の築山殿と自害。なお、本人は一時岡崎城に移り住んでいたため岡崎姓を名乗ったことはあるが、人生の大半は松平姓を名乗り続けてきたことが判明しており、「徳川信康」と表記するのは厳密には誤り。
次男・結城秀康
家康が「御手付き」してしまった女性・お万の方の子供であるが故、小牧長久手の戦いの後に豊臣秀吉の養子となるが、後に結城家に養子に入る。越前松平家、津山松平家の開祖。
三男・徳川秀忠
2代目徳川将軍。家康存命中は関ヶ原合戦の遅刻など大ポカが目立ったが、家康から帝王学の教えを受け、将軍としての能力を発揮する。

死因 Edit

コメント Edit


URL B I U SIZE Black Maroon Green Olive Navy Purple Teal Gray Silver Red Lime Yellow Blue Fuchsia Aqua White

閲覧者数 Edit

現在8
今日1
昨日1
合計576

*1 家光の将軍就任には、乳母の春日局が家康に直訴したことにより、家康が正式に2代将軍の跡継ぎを、秀忠の長男にあたる家光と指名したことが大きな要因である。以来、家光は自身の将軍職就任のために動いてくれた乳母や祖父を終生尊敬し続けた。

ホーム リロード   新規 下位ページ作成 コピー 編集 添付 一覧 最終更新 差分 バックアップ 検索   凍結 名前変更     最終更新のRSS