南光坊天海とは、戦国時代から江戸時代の僧侶である。「黒衣の宰相」とも呼ばれ、徳川政権の深部にまで携わりその力を発揮した。 【生没年】1536?~1643 【出身地】不明(陸奥国説が濃厚) 【主君】徳川家康→秀忠→家光
天海の前半生は謎に包まれている。陸奥国出身といわれるが、確実ではない。若いころは「隋風」と名乗り、比叡山をはじめとした機内の寺院を転々として学問にはげんだという。織田信長による比叡山の焼き討ちが行われたのちは、武田信玄の助けを得て甲斐国に移住し、後に上野国へ移住し、1588年に武蔵国の無量寿寺北院(現在の喜多院)に転居して「天海」と号したという。 この北院に転居して以来、天海の事績が記されるようになっていく。豊臣秀吉による北条攻めが行われた1590年には、徳川家康の陣にすでに天海がいたことが判明しており、遅くともこのころからは徳川家に仕えていたものと思われる。 秀吉薨去後の1599年には北院の住職となり、秀吉亡き後に権力を掌握した家康によく仕え、朝廷との会談の際には交渉役を買って出ている。1607年に比叡山探題執行を命ぜられ、南光坊に住して延暦寺再興に関わった。それゆえ、「南光坊天海」と呼ばれる。 1613年には北院を「喜多院」と名称を改めたのち、関東天台の本山として位置付けた。 この翌年、徳川将軍家になおも反抗を続ける豊臣家との戦闘の口実を探していた家康は、方広寺の鐘に刻まれた銘文「国家安康 君臣豊楽」を口実に豊臣家との戦闘に踏み切った。いわゆる「方広寺鐘銘事件」である。天海はその黒幕(フィクサー)として行動していたとされる。 家康が豊臣家を滅ぼした翌年の1616年、家康は病に倒れた。神号や葬儀に関する遺言を天海*1に託し、6月に家康は薨去した。 家康の薨去後、天海は家康への神号の件で、以心崇伝や本多正純と議論した。天海は「権現」を推したが、崇伝や正純は「明神」を推した。秀忠はどちらかというと崇伝の意見に賛成していたようだが、天海の「権現」を推す理由を諮問した。 天海は「豊国大明神をご覧あれ」と主張した。「豊国大明神」とは豊臣秀吉のことである。天海は、「明神」の神号が「徳川の天下が2代で終わる」ことを想起させるため、不吉であると断じたのである。崇伝や正純、秀忠もこの意見に納得し、「大権現」の神号を与え、家康の遺体を久能山東照宮から日光東照宮に改葬した。 3代家光の治世においても、天海は将軍家に仕え続けた。1624年には忍岡に寛永寺を創建した。また、天海はもともと陰陽道や風水に関して優れた知識を持っていたので、それを生かした江戸の都市計画を練った。晩年は、秀忠時代に失脚した福島正則*2ら大名の復帰や紫衣事件の実行犯・沢庵の赦免のため奔走した。 1643年、逝去。享年108歳と伝わる。
天海は前半生の詳細がよくわかっていないことと、医学があまり発展していない中世日本において、108歳というあまりにも長命であったことと、羽柴(豊臣)秀吉が明智光秀を打ち破った「山崎の合戦」において、合戦当時は初夏だったため、首実検の際に「光秀の首」とされた首がグズグズに腐っており、判別がつきにくかったという状況から、「天海=明智光秀」説が出ている。 一応、根拠としては以下のとおりである。 ●日光東照宮の屋根瓦に、明智の家紋・桔梗紋が多数使われていること ●日光に「明智平」という地名が残っており、この地名は天海が名付けたものであること ●光秀の書状と天海の書状を比較すると、筆跡が酷似していること ●光秀の重臣の斎藤利三の娘・お福が徳川家光の乳母(春日局)になったこと ただ、これらの根拠には信憑性に乏しいので、史実としては「珍説・奇説」の類とする否定的な見方が強い。とはいえ、ロマンに富むためか、戦国時代を舞台にした作品ではこの珍説を下敷きにした作品が多く見られる。