西郷隆盛 のバックアップ(No.4)

西郷隆盛とは、江戸時代末期から明治時代初期の武士・参議・陸軍大将である。

プロフィール Edit

生没年1828年1月23日(文政10年12月7日)- 1877年(明治10年)9月24日
出身薩摩国鹿児島城下加治屋町
西郷吉兵衛
まさ
兄弟西郷従道、西郷吉二郎
子女西郷菊次郎、西郷菊子(菊草)、西郷寅太郎
伊集院須賀、愛加那、西郷いと
墓所鹿児島県鹿児島市上竜尾町南洲墓地

生涯 Edit

鹿児島上下最下級の御小姓組・西郷吉兵衛の長男として生まれる。はじめ小吉と名乗り、やがて吉之助に改名した。
藩校造士館に学んで、1844年(弘化元)年には郡方書役助、後に書役に命ぜられ、10年間農政を指導する中、藩の上層部の腐敗を目の当たりにし、藩政改革の必要性を痛感する。


1854年(安政元年)には江戸で薩摩藩主・島津斉彬の知遇を受けて御庭方役に就任し国事に奔走するが、1858年(安政4年)に斉彬が突然病死し、しばし絶望にひたり自殺を図るが、国事に奔走する中出京で出会った勤王僧・月照の説得で思いとどまる。後に安政の大獄の手が月照に迫ると、西郷はなんとかして月照を日向に逃がそうとしたが、計画がすでに幕府に漏れていたため絶望し、錦江湾で月照と入水自殺を図る。
結局、西郷は蘇生し、奄美大島に流された。これは西郷が罪人であるという理由でではなく、藩として西郷の身柄を守るための処置であり、親友の大久保一蔵(利通)との手紙のやり取りも許可されていたという。奄美大島で潜伏生活を送る中、島の酋長の姪の愛加那を妻とし、長子の菊次郎と長女の菊草を設けたが、藩の掟で奄美大島の島民を本土に連れ帰ることはできなかったため、やむなく妻子をおいて1862年(文久2年)、藩の命令で帰国した。


斉彬亡き後、藩の実権を握っていたのは異母弟の久光*1であったが、久光と西郷は終生反りが合わなかった。帰国した後、西郷は上洛のための準備の手伝いを西郷に要請するが、上洛のためのノウハウを何も知らなかった久光に対して呆れた西郷が「地ごろ」(薩摩弁で「田舎者」)呼ばわりしたため、久光の怒りを買ってしまい、沖永良部島に配流となった。沖永良部島には罪人として配流されたため、牢内の環境は劣悪で、風土病のフィラリアにかかってしまい、一時は生死の境をさまよったが、島役人の土持政照とその母・ツルが必死に看病に当たり、一命をとりとめた。
ここで詩人・川口雪篷と出会い、後に雪篷は西郷家に居候し、西郷との交流は死ぬまで続いた。

やがて、大久保一蔵や小松帯刀のとりなしで、西郷は再び召喚を受け、薩摩に帰国する。召還後、第1次長州征討では幕府側の参謀として活躍。この後、勝海舟に面会し、幕府の現状について語り合ったことで思想を佐幕から討幕へと転換させる。
1866年には土佐脱藩浪士・坂本龍馬や中岡慎太郎の仲立ちで、長州の木戸孝允と薩長連合を結んだ。当初は西郷も木戸も禁門の変の遺恨などにより、なかなか連合に踏み切れなかったが、龍馬の「もはや議論しているときではない。今や目の前に欧米諸国の艦隊が迫っているのです。内輪もめを口実としてこの日本が植民地化されれば、あなたは何としますか!」という説得のもと、ようやく同盟に踏み切った。

戊辰戦争の際には東征軍参謀に任ぜられた。

西郷の「肖像」について Edit

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*1 藩主には久光の長男である茂久(忠義)であったが、若輩のため実権は久光が握っていた

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