松永久秀 のバックアップ(No.4)
松永久秀は、戦国武将の一人である。戦国時代を取り扱う作品では悪役とされることが多い。 生没年:不詳~1577年*1 概要
かつて織田信長は、久秀をこのように評価している。 記録が乏しいため、幼少期ならびに青年期の久秀の動向は不明だが、1540年時点では畿内・阿波国(徳島県)の戦国大名・三好長慶に仕官している。この主君のもとで、久秀は着々と戦力や権力を身につけていき、大和の支配者となった。 1565年5月には義継と三好三人衆、嫡子の久通が14代将軍・足利義輝の邸宅を襲撃し、これを殺害している。この事件は近年までは久秀が主犯格であるとされてきたが、現在の研究では否定されつつあり、そもそも現場にすらいなかったとされている。このとき、久秀は僧侶となっていた後の15代将軍・足利義昭を軟禁していたという。軟禁とはいっても、許可なく外出することを禁止するくらいの軽いもので、久秀はこの際に、「あなた様の命は私がお守りします」と約束していたという。 名目上は「将軍・足利義昭」という肩書を持つが、所詮は信長の傀儡政権にすぎないことを察知した義昭は各地の大名に「信長を討て」と命ずる書状を送った。それはもちろん、久秀とて例外ではなかった。信長の専横ぶりに思うところのあった久秀もこれに呼応し、信長を討つ計画を練っていたが、1573年に包囲網を形成する大名の中で強大な力を誇っていた甲斐の武田信玄が病死したことで包囲網は崩壊し、久秀も信長に降伏した。このとき、信長は意外にも久秀の謀反の罪を不問に付している。 1577年、越後の上杉謙信が上洛する噂が流れると、またも信長に反旗をひるがえし、一向衆とともに大和の信貴山城に籠城した。この際信長は「何か不満があるなら遠慮なく打ち明けてくれ」という趣旨の書状を送っているが、久秀は完全に無視して籠城体制を崩さない。 逸話
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