木戸孝允 のバックアップ(No.4)

木戸孝允は、江戸時代末期の長州藩士、明治時代初期の官僚。西郷隆盛や大久保利通と共に、「維新の三傑」と並び称される。

生没年1833~77年
身分長州藩士、第2代文部卿、第2代内務卿

長州藩医・和田昌景の長男として生まれる。数え年7歳で同藩士の桂家に養子入りして桂小五郎を名乗る。子供時代は病弱ながらも腕白で、萩城下の松本川を行き来する船を船頭ごと転覆させて快哉を叫ぶといういたずらに熱中していた。
ある日、いつものようにこのいたずらを実行しようとしたが、いい加減アタマに来ていた船頭に櫂(オール)でシバかれてしまう。しかし、小五郎少年は流血しながらもニコニコ笑っていた。この傷は生涯残っていたという。
1849年に藩校・明倫館にて吉田松陰に師事し、1852年に江戸で遊学し斎藤弥九郎に剣術を、江川太郎左衛門に西洋砲術を習う。
1858年以降、安政の大獄を境に薩摩や長州、水戸などの諸藩の尊王攘夷派の志士と親交を深め、同じく松陰の弟子であった旧松下村塾門下生の高杉晋作や久坂玄瑞とともに、長州藩内の尊王攘夷派の頂点に立つ。1859年には恩師の松陰が安政の大獄で処刑されたが、旧松下村塾門下生の伊藤俊輔(後の博文)とともにこれを埋葬した。
1862年、公武合体政策に尽力していた老中・安藤信正が尊王攘夷派の浪士に襲撃されて負傷する事件が発生した。坂下門外の変である。桂の知人であった水戸浪士・川辺左治右衛門はこの襲撃に参加するはずであったが遅刻してしまい、これを恥じた川辺が桂の邸宅に赴き、その場で自害してしまった。これがもとで、桂にも坂下門外の変に加担したという嫌疑がかけられたが、開国論者で朝廷や幕府から注目されていた同藩士の長井雅楽のとりなしで事なきを得た。同年には藩政の要職についており、藩論を尊攘から倒幕に転換させた。
1864年には新選組による池田屋事件やその2年後には蛤御門の変が発生し、久坂や吉田稔麿など、かつての同志の多くが死に絶えた。
池田屋事件の当日、桂は池田屋で同藩士の吉田稔麿や熊本藩士の宮部鼎蔵などと待ち合わせしていたが、時間より大幅に早く到着してしまっていたため、散歩に出かけていた。これにより、桂は虎口を脱した。
この頃桂は新選組からのお尋ね者となっており、芸者の幾松(のちの木戸松子夫人)の助けを得て、潜伏生活を余儀なくされた。
やがて1865年、高杉晋作により藩論が倒幕に完全に転換すると、桂は帰藩して、藩主毛利候から木戸寛治の名を賜った。藩にとって桂は重要な人材で、改名させることで「桂小五郎は病気で死にました」と幕府の調査をごまかす意図があった。
翌年には土佐脱藩浪士・坂本龍馬?並びに中岡慎太郎の仲立ちで、長州藩の代表として薩摩藩の実力者・西郷吉之助(隆盛)並びに大久保一蔵(利通)と薩長同盟を締結する。
新政府成立後には政府官僚として太政官に出仕し、参与、総裁局顧問、参議に就任した。名も「木戸孝允」と改めた。
1868年には土佐藩士・福岡孝弟や福井藩士・由利公正とともに五箇条の誓文を起草。これによって、明治新政府の基本方針が定まり、1869年の版籍奉還や1871年の廃藩置県などの近代的な制度改革を殆ど抵抗なく進めることができた。この一連の改革は、多くの藩が戊辰戦争により財政的に疲弊していたことや、藩主の殆どが江戸生まれであることも一助となっていた。
1871年には大久保利通や伊藤博文とともに、岩倉具視率いる使節団に参加し、諸国の憲法を研究した。
1873年に帰国してのちは政府内で憲法や三権分立性のの重要性を唱え、国民教育や天皇教育の充実に務めた。また、木戸たちが留守にしている間、政府内で盛り上がっていた西郷隆盛の征韓論には大久保や岩倉とともに反対し、これによって西郷は政府を辞して郷里の鹿児島に帰った。
憲法の重要性を幾度も訴えたが、大久保利通との関係は悪化する一方で、1874年の台湾出兵に際してはこれに反対し、一時政府を下野した。翌年の大阪会議では、将来の立憲制採用を協議して政府に復帰したが、大久保を批判する論調で会議に望み、もはや大久保との仲は修復不可能であった。
復職後は地方官会議議長や内閣顧問などを務めたが、この頃には明治元年からの慢性的な体調不良が悪化していた。
1877年2月、西郷隆盛が鹿児島にて反乱を起こす。西南戦争である。そのさなか、木戸は京都に出張中であった。
同年、5月26日。木戸は、うわ言のようにこう呟いた。
「西郷よ、もういい加減にしないか」
そう呟くと、木戸は松子夫人の見守るさなか、永遠の眠りについた。木戸孝允、享年45歳_____。
やがて、木戸の死から4ヶ月後、西郷は城山で戦死し、西郷の戦死からおよそ8ヶ月後には大久保は旧加賀藩士族6人に馬車を襲撃され、命を落としている。
遺族は、華族令当初から侯爵に叙されたが、これは旧大名家、公家以外では、大久保利通の遺族とともにただ二家のみであった。

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