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日本史雑学集
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日本史雑学集
へ行く。
1 (2024-01-15 (月) 13:58:42)
2 (2024-01-16 (火) 00:56:43)
3 (2024-01-17 (水) 05:17:49)
4 (2024-01-24 (水) 06:17:46)
5 (2024-10-10 (木) 02:19:21)
ここでは、日本史に関する雑学を紹介していく。この記事を読み、かつ自分の持っている知識を加筆していけば、きっと日本史への興味がより一層深まる・・・ハズである。
※どんどん追加していってネ!
原始(旧石器~弥生+神代)
縄文時代は食料確保の手段が狩猟だったので争いが少なく、せいぜい獲物を巡った小競り合い程度であった。
縄文時代の後期から、すでに農耕は始まっていた。当時はソバ、ヒョウタン、ヤマイモや陸稲が栽培されていた。
山形県の遊佐・小山崎遺跡からカボチャの種子にそっくりな植物の種子が出土している。
貝塚は単なるゴミ捨て場ではなく、遺体を埋葬する場でもあった。つまり、役割を終えたあらゆるものを集め、あの世に送り、再びこの地に戻ってくる事を願ったのである。
邪馬台国の女王・ヒミコ(卑弥呼)は晩年、年を取って霊力が弱まったので用済みになり、殺されたという説がある。
ヒミコに「卑弥呼」と当て字がなされているのは、当時中国の王朝(魏)が、当時の朝鮮半島や日本を含めた自国の周辺の王朝を自国より劣っているとみなしていたからである。魏志「
倭
人伝」や後漢書「
東夷
伝」などの書籍名にもこうした思想が垣間見える。
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古代(古墳~平安(院政以前))
聖徳太子は架空の存在であったという説がある。一応、厩戸王という人物が当時存在したことは確定的なのだが、「聖徳太子」の名前がみられるのは太子没後の1世紀後にあたる751年に編纂された漢詩集の『懐風藻』が初出で、厩戸王=聖徳太子とは断定できない。
聖徳太子の子に
山背大兄王
(
やましろおおえのおう
)
という人物がいたが、太子没後、蘇我入鹿に攻め滅ぼされ、妻子もろとも自害した。山背大兄王の死をもって、太子の血統は断絶した。
万葉集の女流歌人として知られる額田王。大海人皇子(天武天皇)と中大兄皇子(天智天皇)との三角関係に苦しんだという逸話がある。
紫式部の日記に、清少納言を批判する記述がみられることから、「紫式部と清少納言は仲が悪かった」としばしば喧伝されるが、近年は「両者は宮中に仕えていた時期が異なるので、そんなに面識はなかったんじゃないか?」という説が有力。
清少納言は盗賊の襲撃を受けた際、●●を丸出しにして、女であることを証明したことがある
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中世(平安(院政以降)~戦国)
崇徳上皇は、公式には鳥羽天皇と藤原璋子のあいだにできた親王であるとされているが、実際のところは白河法皇(鳥羽天皇の曽祖父にあたる)と璋子が密通して生まれた子であり、鳥羽天皇は崇徳天皇を「叔父子」と呼んで忌み嫌い、弟の雅仁親王(のちの後白河法皇)ばかりをかわいがっていたという。
瀧山寺の聖観音菩薩立像には、熱田神宮の神主・藤原寛伝(源頼朝の従兄)によって頼朝のヒゲと歯が収められている。
足利義政の慈照寺(銀閣)が銀色でない理由は、①銀箔を張ろうとしたが、予算がなかった②もともと銀箔を張るつもりはなく、名前を「金閣」(鹿苑寺)にあやかっただけの2説がある。
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近世(安土桃山・江戸)
織田信長と豊臣秀吉に仕えた武将・蒲生氏郷は子供のころ、信長にガンを飛ばし、その勇気を信長に気に入られた。
信長は秀吉を「猿」とは呼んでいない。
秀吉が伴天連追放令を発令したのは、キリスト教の宣教師が調子に乗って九州地方各地で神社仏閣を破壊し、僧侶を殺害したのち5万人もの人々を奴隷として誘拐したから。
徳川家康は、関ケ原合戦後、西軍の石田三成の子息を助命している。
小林一茶は幼少期は家族に恵まれず、継母がかなりの毒親だった
小林一茶は絶倫で、妻を過労死させた過去を持つ
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近代(明治~昭和(戦前))
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現代(昭和(戦後)~令和)
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