二階堂盛義 のバックアップ(No.4)

二階堂盛義とは、戦国武将の一人である。
生没年:生年不詳~1581年

概要 Edit

 かつて鎌倉時代に十三人の合議制の構成員の一人として重きをなした公卿・二階堂行政の分家筋にあたる陸奥国岩瀬郡の支配者・須賀川二階堂氏の生まれである。
盛義が誕生した戦国時代、二階堂家はかつての勢いを失っており、蘆名氏や伊達氏、最上氏などに圧迫されていた。
1566年には隣国の黒川城城主・蘆名盛氏と戦うも敗北し、息子の平四郎を人質に出すことで和睦する。その後1574年、蘆品家において跡継ぎと目されていた嫡男の盛興が若くして急逝した(病死説が根強いが、毒殺説もある)ため、人質となっていた平四郎が「盛隆」と名乗り、蘆名家を継いだ。盛隆は自国の勢力を増強するとともに実父の盛義を助け、二階堂家の勢力拡大に寄与した。
 1581年に盛義は死去し、その3年後には盛隆も家臣の裏切りにあって殺害されてしまった。二階堂家の跡継ぎであった次男・行親も盛隆が殺害された時にはすでにこの世の人ではなかったため、盛義の妻・お(なみ)の方が家を守ることとなった。
このお南の方は伊達家の出身(晴宗の娘で、輝宗の姉)であったため、蘆名家の一門として扱われていた二階堂家は伊達家とは疎遠になっていたが、お南の方からみて甥にあたる政宗が家督と継ぎ、奥州支配に着手してからは関係が悪化した。蘆名家は佐竹義重の次男・義広が養子入りして継いだが、二階堂家は佐竹・蘆名とともに伊達家に対抗し続けた。
 しかし、1589年に蘆名家が摺上原の戦いで滅ぼされたのち、勝ちに乗じた政宗は須賀川城を攻撃し、お南の方の抵抗もむなしく城は落とされてしまった。政宗は自害しようとする叔母を思いとどまらせ、政宗の祖母・久保姫の居城である杉目城に住まわせた。しかし、嫁ぎ先を滅ぼした甥を許せるはずもなく、終生お南の方は政宗を恨み続け、伊達家を出てからはもう一人の甥・岩城常隆、続いて佐竹義宣の元を転々とし、1602年まで生きた。

まさかのミーム化 Edit

 この二階堂盛義という人物は、よほど日本史、特に戦国史を深く勉強した人でなければまず知らないであろう人物である。しかし、コーエー(現:コーエーテクモゲームス)はこれを逆手に取ったのか、『信長の野望 蒼天録』でとんでもないことをやらかす。
二階堂盛義の顔グラを、全体の顔つきを、当時今を時めく芸人の小島よしお氏を思わせるかのような造形にしただけでなく、目をかっ開かせ、口を大きく開けさせて今にも叫びだしかねない突っ込みどころ満載の顔つきにしてしまったのである。「何を言ってるのかわからねー」と思う人は、OMG Catの記事を参考にしてください。
この顔グラはネット民の格好のおもちゃとなったほか、これにすべての元凶であるコーエーも盛大に乗っかり、PS2版「太閤立志伝V」の説明書には「大砲に驚くシーン」でこの顔グラを使用し、ソーシャルゲーム「のぶニャがの野望」の『ニーかいどう盛義』の顔グラのデザイン元にも使用したほか、2017年に「信長の野望LINEスタンプ」を配信した際には、有名どころの織田信長や豊臣秀吉、武田信玄や上杉謙信、徳川家康に交じって例の顔つきの二階堂盛義や、同じく『蒼天録』で「うわぁあああお!」と叫びそうな顔芸を披露した隈部親永とともにお披露目した。まさに「公式が病気」状態である。
コーエーはほかにも「顔芸」を披露している顔グラを複数生成しており、前述の『隈部親永』や若き日の北大路欣也をモチーフにした怒り顔の『伊達輝宗』、同じく怒り顔だが伊達輝宗とは構図がやや異なる盛義の父・『二階堂輝行』、怒り顔でかなり暑苦しい髭面の『鳥居強右衛門』、かなり晴れ晴れとした顔つきの『姉小路頼綱』、ポカーンと口を開けた『国分盛顕』、無表情でこちらを見ているかのような『国分盛顕』などがいる。

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