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幕末 のバックアップ(No.39)
幕末とは、日本の歴史において幕府の政権の末期を指す用語である。普通、19世紀中盤の日本の情勢を指して呼称する。ここでは、1841年から1877年にかけての社会変革について解説する。
歴史上の流れ
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| 西暦 | 年号 | 出来事 |
| 1853年 | 嘉永6年 | マシュー・ペリーがフィルモア大統領の国書を携えて浦賀に来航 |
| ロシアのエフィム・プチャーチンが長崎に来航 | ||
| 1854年 | 嘉永7年/安政元年 | 日米和親条約調印。下田・箱館の開港。 |
| 日英和親条約調印。長崎・箱館の開港 | ||
| 安政東海地震 | ||
| 安政南海地震 | ||
| 1855年 | 安政2年 | 安政江戸地震。徳川斉昭の腹心の藤田東湖・戸田忠太夫が圧死 |
| 日露和親条約 | ||
| 1856年 | 安政3年 | アメリカ領事タウンゼント・ハリスが下田に着任 |
| 日蘭和親条約 | ||
| 1857年 | 安政3年 | ハリス襲撃事件(未遂) |
| 1858年 | 安政5年 | 南紀派の井伊直弼、大老就任 |
| 日米修好通商条約調印。神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港。孝明天皇が激怒し、睦人親王に譲位を表明(堀田正睦のとりなしで撤回) | ||
| 薩摩藩主・島津斉彬が急死。コレラ説が有力 | ||
| 1858年~1859年 | 安政5年~安政6年 | 安政の大獄。吉田松陰・橋本左内ら死罪。松平春嶽・山内容堂・徳川斉昭・一橋慶喜らは謹慎処分 |
| 1859年 | 安政6年 | ロシア海軍軍人殺害事件 |
| 安政の大獄の余波が薩摩にも及び、西郷吉之助(隆盛)が勤皇僧・月照とともに錦江湾で入水(西郷は蘇生したが、月照は死亡。のちに西郷は幕府の捜査の目をごまかすため死亡が偽装され、奄美大島に流される) | ||
| 1860年 | 安政7年/万延元年 | 幕府が咸臨丸で遣米使節を派遣。勝海舟・福沢諭吉・中浜万次郎などが乗船 |
| 桜田門外の変 | ||
| 日本人通訳・小林伝吉が殺害される | ||
| 幕府、五品江戸廻送令を発布し物価高騰抑制を試みる | ||
| 前水戸藩主・徳川斉昭亡くなる | ||
| 1861年 | 万延2年/文久元年 | ロシア軍艦による対馬芋崎の占領事件(ポサドニック号事件)。小栗忠順とピリレフによる交渉 |
| 駐日アメリカ総領事館の通弁官・ヒュースケンが暗殺される | ||
| 第一次東禅寺事件。水戸藩の過激派浪人による東禅寺逗留中のオールコック(英領事)を襲撃 | ||
| 1862年 | 文久2年 | 徳川家茂、和宮親子内親王と婚姻 |
| 文久遣欧使節。正使・竹内保徳や副使・松平康直を派遣。柴田剛中、福地源一郎(桜痴)、福沢諭吉、松木弘安(寺島宗則)、箕作秋坪らが随行 | ||
| 坂下門外の変。水戸藩過激派による老中・安藤信正襲撃事件。信正は背中の負傷がもとで失脚 | ||
| 寺田屋事件。島津久光が派遣した鎮撫使と過激派・有馬新七らが乱闘 | ||
| 第二次東禅寺事件 | ||
| 生麦事件。島津久光の行列を横切ったイギリス人・リチャードソンをお供の藩士が斬殺 | ||
| 高杉晋作、伊藤俊輔(博文)、志道聞多(井上馨)らによる英国公使館焼き討ち事件 | ||
| 文久の改革。将軍後見職に一橋慶喜、政事総裁職に松平春嶽が就任 | ||
| 文久の改革。蕃書調所を洋書調所と改める | ||
| 文久の改革。幕府陸軍の設置や三兵戦術を導入 | ||
| 文久の改革。千歳丸を清に派遣 | ||
| 対馬藩家老・佐須伊織が42名の過激尊攘派により暗殺 | ||
| 江州石部事件。「石部宿の惨劇」。岡田以蔵らにより京都町奉行所の役人・渡辺金三郎らが殺害される | ||
| 1863年 | 文久3年 | 薩英戦争。戦闘は五分五分の引き分けに終わり、これ以降薩摩とイギリスは友好関係に転じる |
| 八月十八日の政変。三条実美らの七卿落ち | ||
| 生野の変。福岡藩士・平野国臣が挙兵 | ||
| 天誅組の変。土佐藩士・吉村寅太郎が挙兵 | ||
| 井土ヶ谷事件。陸軍少尉アンリ・カミュが浪士数名に殺害される | ||
| 1864年 | 文久4年/元治元年 | 水戸天狗党の乱。藤田東湖の遺児・藤田小四郎らが挙兵 |
| 池田屋事件。新選組による土佐・長州藩の不逞浪士暴発の抑制。桂小五郎(木戸孝允)は池田屋に予定より早く到着し、散歩に出かけていたため難を逃れる | ||
| 禁門の変 | ||
| 四国連合艦隊下関砲撃事件 | ||
| 第一次長州征伐 | ||
| 1866年 | 慶応2年 | 土佐脱藩浪士の坂本龍馬・中岡慎太郎の斡旋により薩長同盟締結 |
| 第二次長州征伐 | ||
| 徳川家茂、第二次長州征伐の陣中にて急死。死因は脚気とされる | ||
| 徳川慶喜、征夷大将軍に就任 | ||
| 1867年 | 慶応3年 | 孝明天皇崩御。睦仁親王(明治天皇)践祚 |
| 徳川昭武(慶喜の異母弟)、パリ万博のため渋沢栄一らとともに出発 | ||
| アーネスト・サトウ襲撃事件。徳川慶喜に面会後、停泊中の宿に襲撃を受けるが護衛の武士がこれを撃退 | ||
| 赤松小三郎暗殺事件 | ||
| 徳川慶喜による大政奉還の宣言 | ||
| 坂本龍馬・中岡慎太郎が近江屋にて襲撃を受ける。龍馬は即死、中岡は二日後に死亡 | ||
| 油小路の変。この事件に先立ち、首魁の伊藤甲子太郎が殺害されたことで御陵衛士が決起し、新選組と争うが壊滅 | ||
| 小御所会議。徳川慶喜に辞官納地を命じる「王政復古の大号令」が発令 | ||
| 1868年 | 慶応4年/明治元年 | 神戸事件。備前藩の兵士が隊列を横切ったフランス人水兵を銃撃 |
| 五箇条の御誓文。由利公正起案、福岡孝弟修正による | ||
| 五榜の掲示。徳川幕府の禁令をそのまま継承 | ||
| 神仏分離令 | ||
| 府藩県三治制 | ||
| 「明治」に改元 | ||
| 1868年~1869年 | 慶応4年/明治元年~明治2年 | 戊辰戦争 |
| 慶応4年1月 | 鳥羽・伏見の戦い。徳川慶喜、大阪まで逃走 | |
| 慶応4年3月 | 甲州勝沼の戦い。近藤勇斬首 | |
| ハリー・パークス襲撃事件 | ||
| 慶応4年閏3月 | 西郷吉之助と勝海舟による江戸城無血開城会談 | |
| 慶応4年閏4月 | 会津戦争。白虎隊。婦女隊の悲劇。 | |
| 慶応4年5月 | 北越戦争 | |
| 慶応4年5月 | 上野戦争。天野八郎らの激しい抵抗 | |
| 慶応4年7月 | 秋田戦争 | |
| 明治元年10月 | 箱館戦争。榎本武揚・大鳥圭介らの降伏をもって戊辰戦争終結。 | |
| 1869年 | 明治2年 | 東京奠都*25 |
| 版籍奉還 | ||
| 蝦夷から北海道に改称 | ||
| 太政官制発足(二官六省)。太政大臣に三条実美が就任 | ||
| 浦上二番崩れ。最後のキリスト教徒弾圧事件 | ||
| 大村益次郎、守旧派の襲撃を受けて2か月後に死去*26 | ||
| 1870年 | 明治3年 | 大教宣布。神道を国教として正式に定めた |
| 1871年 | 明治4年 | 廃藩置県 |
| 日清修好条規締結 | ||
| 岩倉具視、伊藤博文、山口尚芳、大久保利通、木戸孝允ら「岩倉使節団」の派遣 | ||
| 郵便制度施行 | ||
| 1872年 | 明治5年 | 田畑永代売買禁止令廃止 |
| 学制公布 | ||
| 新橋から横浜間に日本初の鉄道が開通 | ||
| 琉球王国が琉球藩となる。これに伴い、琉球国王の尚泰の肩書は「藩王」となる | ||
| 1873年 | 明治6年 | 太陽暦採用 |
| 徴兵令公布*27 | ||
| 明治2年の浦上二番崩れに対する欧米列強からの強い批判を基に、五榜の掲示の撤廃。これによりキリスト教が解禁 | ||
| 地租改正*28 | ||
| 明治六年政変。「征韓論争」。西郷隆盛ら政府を辞す | ||
| 1874年 | 明治7年 | 板垣退助が下野し、後藤象二郎・由利公正・ |
| 台湾出兵 | ||
| 西郷隆盛、士族の救済施設「私学校」を設立 | ||
| 江藤新平、佐賀の乱を起こす。江藤は土佐で捕縛され、斬首された | ||
| 北海道に屯田兵制を導入 | ||
| 1875年 | 明治8年 | 平民苗字必称義務令公布 |
| 愛国社設立 | ||
| 立憲政体の詔。元老院・大審院・地方官会議を設置 | ||
| 樺太・千島交換条約締結 | ||
| 1876年 | 明治9年 | 日朝修好条規締結 |
| 秩禄処分 | ||
| 帯刀禁止令公布 | ||
| 金禄公債証書交付 | ||
| 神風連の乱。旧熊本藩士で神官の | ||
| 秋月の乱。旧秋月藩士・ | ||
| 萩の乱。旧長州藩士・旧参議の前原一誠が反乱を起こすも鎮圧。前原は斬首。 | ||
| 1877年 | 明治10年 | 東京大学設立 |
| 木戸孝允、京都の自邸にて病死。明治六年政変以降の体調不良が悪化 | ||
| 西南戦争。西郷隆盛および私学校幹部の桐野利秋ら戦死。最後の士族の反乱 | ||
| 1878年 | 明治11年 | 紀尾井坂の変。大久保利通暗殺 |
我が国の歴史では、鎌倉幕府、室町幕府、そして江戸幕府の3つの幕府が登場する。その中で、鎌倉幕府の滅亡時並びに室町幕府の滅亡時を「幕末」と称する例はほとんど皆無である。
これは、鎌倉期及び桃山期は、幕府という組織が消滅していても武士が実権を握って跳梁跋扈していた時代であるが、19世紀末の日本の後半の情勢は天皇を中心とした政治体制に転向し、幕藩体制などの武家政権そのものが終焉を迎えたという意味を内包しているからであると推測される。
「幕末」という時代は、戦国時代と並んで最も作品の題材にされやすい。それは、普段なら活躍できないような立場の人間が混沌とした情勢の中で活躍できたからであろう。鎌倉時代から600年以上続いていた武家による封建社会から、天皇を中心とした立憲君主制へと移り変わる切っ掛けとなった大きな政治的転換点、または開国に伴う外国からの技術・物品の大規模な流入による経済的・文化的変化が発生した時代としても見ることができる。
しかし、「絶対的な正義・絶対的な悪」が存在するわけではなく、時期によって敵・味方の関係性も変動しやすく、特定の藩や組織を扱う際に描かれ方が大きく異なってくることもまた事実である。
例えば、「新選組」は「京都の皇室を脅かす」攘夷派志士を取り締まるために結成されたのだが、いざ戊辰戦争で薩長ら「官軍」が優勢になるや、たちまち「賊軍」とみなされ、皇室史観が主流の戦前までは「皇室に弓引いた守旧派のならず者共」「明治新政権に必要とされたであろう人材を多く殺した外道の集団」のレッテルを張られていたのである。
人物評価もまたしかり。幕臣の勝海舟は、坂本龍馬や西郷隆盛を主役に据えた作品では「幕臣でありながら、滅びゆく幕府に早々に見切りをつけ、近代国家の構想を練った」とされるが、こういった作品では、勝と一部似た思想を持ちながらも、幕府の存続を目標とし、しばしば勝と対立した幕臣の小栗忠順は勝の邪魔をする頑迷固陋な人物として描かれるか、存在そのものをオミットされていることがある。しかし、新選組など佐幕派を題材とした作品では、「幕臣でありながら幕府の解体をもくろみ、政府に魂を売った裏切り者」として描かれている。
長州藩にしても、この藩は歴史的な勝者となり、わが国の近代化の歴史を語るうえで欠かせない存在となったのだが、そこに至るまでの行動はとかく混迷を極めている。尊王攘夷をうたいながらも、「禁門の変」では天皇の身柄を確保して主導権を握ろうとした試みが裏目に出て「朝敵」のレッテルを張られてしまったことは、その典型的な例である。政府内において昭和前期まで主導権を握ったのも、薩長土肥の藩閥間の潰し合いに勝利した結果と言えよう。
敵も味方も何かしらの思想を掲げねばならず、その結果凄惨な粛清劇が広げられて多くの血が流されたことや、「尊王攘夷」と謳いながらも、国際社会をこの先生きのこるにはそれが不可能であることを悟り、外国から武器などを買い集めるようになった矛盾も、この「幕末」という時代を善悪の二元論で分けて考えることを非常に難しくしている。
現在は幕末から150年以上が経過しているが、「もう昔のこと」と割り切れるほど古い時代ではないので、実在の人物を悪く描きすぎるとその人物の子孫から「よくもうちのご先祖様を貶したな!」と抗議が出かねないという事情も、幕末を題材にしたフィクションの作成を難しくしている。
| 現在 | 3 |
| 今日 | 1 |
| 昨日 | 1 |
| 合計 | 1167 |