西郷隆盛とは、江戸時代末期から明治時代初期の武士・参議・陸軍大将である。
鹿児島上下最下級の御小姓組・西郷吉兵衛の長男として生まれる。はじめ小吉と名乗り、やがて吉之助に改名した。 藩校造士館に学んで、1844年(弘化元)年には郡方書役助、後に書役に命ぜられ、10年間農政を指導する中、藩の上層部の腐敗を目の当たりにし、藩政改革の必要性を痛感する。 1854年(安政元年)には江戸で薩摩藩主・島津斉彬の知遇を受けて御庭方役に就任し国事に奔走するが、1858年(安政4年)に斉彬が突然病死し、しばし絶望にひたり自殺を図るが、国事に奔走する中出京で出会った勤王僧・月照の説得で思いとどまる。後に安政の大獄の手が月照に迫ると、西郷はなんとかして月照を日向に逃がそうとしたが、計画がすでに幕府に漏れていたため絶望し、錦江湾で月照と入水自殺を図る。 結局、西郷は蘇生し、奄美大島に流された。これは西郷が罪人であるという理由でではなく、藩として西郷の身柄を守るための処置であり、親友の大久保一蔵(利通)との手紙のやり取りも許可されていたという。奄美大島で潜伏生活を送る中、島の酋長の姪の愛加那を妻とし、長子の菊次郎と長女の菊草を設けたが、藩の掟で奄美大島の島民を本土に連れ帰ることはできなかったため、やむなく妻子をおいて1862年(文久2年)、藩の命令で帰国した。 斉彬亡き後、藩の実権を握っていたのは異母弟の久光*1であったが、久光と西郷は終生反りが合わなかった。帰国した後、西郷は上洛のための準備の手伝いを西郷に要請するが、上洛のためのノウハウを何も知らなかった久光に対して呆れた西郷が「地ごろ」(薩摩弁で「田舎者」)呼ばわりしたため、久光の怒りを買ってしまい、沖永良部島に配流となった。沖永良部島には罪人として配流されたため、牢内の環境は劣悪で、風土病のフィラリアにかかってしまい、一時は生死の境をさまよったが、島役人の土持政照とその母・ツルが必死に看病に当たり、一命をとりとめた。 ここで詩人・川口雪篷と出会い、後に雪篷は西郷家に居候し、西郷との交流は死ぬまで続いた。