平賀源内 のバックアップ(No.3)

平賀源内とは、江戸時代中期の本草学者、蘭学者、医者、発明家、建築家・画家(蘭画家)・実業家・浄瑠璃作家・戯作者である。御覧の通り、何足もの草鞋を履きまくった人物である。
【出身地】讃岐国志度浦(現:香川県さぬき市志度)
【生没年】享保13年(1728年)- 安永8年12月18日(1780年1月24日)

生涯 Edit

 讃岐志度浦の足軽の家の子に生まれた。幼いころ、天神様の掛け軸に細工をして「お神酒天神」を作成したことが評判となり、その評判を聞きつけた高松藩医に弟子入りし、本草学(博物学)と儒学を学ぶ。この頃には俳諧グループに所属し、「李山(りざん)」名義で活動している。20歳の頃に父親が亡くなると、父の後釜として蔵番に就職した。1752年頃には1年間長崎へ遊学し、そこで西洋の本草学とオランダ語、医学、油絵などを学ぶ。これに刺激を受けた源内は留学の後に藩の役目を辞し、妹に婿養子を迎えさせて家督を放棄する。
 大坂、京都で学んで自身の学識を一層高め、更には江戸で本草学者・田村藍水(たむららんすい)に本草学を学ぶ。この頃、藍水の子・西湖(せいこ)中川淳庵(なかがわじゅんあん)と親交を結ぶ。さらに、本草学のテキストを解読するために林家に漢学を学び、聖堂にも寄宿した。
 2回目の長崎遊学では鉱山の採掘や精錬の技術を学んだ。1761年には伊豆にて偶然鉱山を発見し、これを契機として物産博覧会を行うようになった。これが、開明派の老中であった田沼意次の目を引くようになる。実はこの2年前に源内は高松藩士として藩にやとわれていたのだが、物産博覧会を気に入っていた田沼に呼び寄せられたことで、源内はお役目をすっぽかして江戸に行ってしまっていた。これがもとで、藩の怒りを買った源内は「奉公構」を出されることとなってしまった。これは、どの大名家にも仕官できなくなることで、当時の武士階級にとっては社会的な死刑も同然だったのだ。しかし、源内は元来自由人な気質なので、この処置をむしろ幸いととらえたのであった。
 1762年には物産会として第5回となる「東都薬品会」を江戸の湯島にて師の田村藍水の協力を得て開催した。この頃には蘭学者・杉田玄白と交流を持つようになった。1763年には物産展で出品した薬品類の図つき解説書「物類品隲(ぶつるいひんしつ)」を執筆した。この書物の校訂には、ともに藍水のもとで学んだ親友の中川淳庵がこれを担当している。源内はオランダ語に興味があり、洋書を多く購入したのだが、源内にはオランダ語の知識が全く説いていいほどなかった。そこで、長崎のオランダ通詞に頼んでこれを解読してもらっていた。
本草学と同時並行に、源内は談義本の作者としても活動していた。浄瑠璃作者としては「福内鬼外(ふくうちきがい)」、戯作者としては「風来山人(ふうらいさんじん)」のペンネームをそれぞれ用いて活動していた。
 1766年はから武蔵川越藩士・秋元凉朝の依頼で奥秩父の川越藩秩父大滝の中津川で鉱山開発を行い、石綿などを発見した。秩父においては炭焼、荒川通船工事の指導なども行った。1773年には出羽秋田藩藩主・佐竹義敦(よしあつ)に客人として招かれて鉱山開発の指導を行い、また義敦の家臣・小田野直武*1に蘭画の技法を伝えた。義敦もまた源内に弟子入りし、蘭画を学んだ。義敦・直武と源内のあいだには「藩主・藩士と浪人」という身分の垣根を超えた師弟関係が出来上がっていた。義敦は源内を心から信用し、下人の福助を源内に仕えさせた。そして、源内が江戸に帰ってからは直武に江戸留学の許可を与え、直武に洋画を学ぶ機会を与えた。
しかし、源内は自らが着手した事業を藩の一大産業に昇華させるまでには至らず、鉱山開発が一大産業として注目されるようになったのは源内が手を引いてからであることも少なくなかった。これは、源内が「奉公構」の立場である為に源内に重大な任務を任せることができないこと、また、源内が成果を出してもそれを源内による成果と認めることは武家社会の体面上は不可能であったためである。また、源内の大ぶろしきを広げるような話し方もよくなかった。源内は「うまくいけば百の利益がでるかもしれない(のだから皆さんで頑張りましょう)」と演説をぶち、皆が源内に期待するというのがお約束だったが、実際10か20くらいの利益が出たところで喜ぶ者はだれもおらず「話と違うじゃないか、源内は嘘つきの大山師だ」と評判が悪くなってしまうのだった。
 1776年には長崎で手に入れたエレキテル(静電気発生機)を修理して復元した。源内はエレキテルの原理をよく理解していなかったのだが、試行錯誤の末修復に成功した。当初は源内はエレキテルを一般大衆にお披露目し、その上で医療に用いる算段をつけていたのだが、「人工的な火花が出る」という特徴のみに好機の目が向けられるにとどまった。
 1779年の夏には橋本町の邸へ移る。多くの事業や研究、洋書の購入に大量に私財を投入したことで、家賃を払うことが難しくなったせいであった。しかし、この橋本町の家は廃屋同然で、おまけにいわくつきのものであった。というのも、この家にはかつて検校(盲目の金融業者)が住んでいたのだが、この金融業者がかなり強欲で、非道な取り立てを行っており、近隣住民から憎まれていた。ついには、債務者を自殺に追いやったことで逮捕されてしまった。そうした中で、この検校には愛する一人息子がいたのだが、遊んでいる最中に井戸に落ちて死んでしまった。この知らせを聞いた検校は牢内で衰弱して命を絶った。それ以来、その邸宅には検校とその息子の幽霊が出るという噂が立ち、誰も住む者がいなくなって廃屋同然に古びてしまったのである。
 源内は大名屋敷の修理を請け負った際に修理計画書を受け取り、肌身離さず持っていた。ある日の夜、源内は大工の棟梁をねぎらうために酒盛りを開いた。そろそろ宴をお開きに仕様としたところ、手元にあったはずの計画書がない。源内は酔っていたために修理計画書を盗まれたと勘違いして大工の棟梁2人を斬りつけてしまった(二人は手当てを受けたものの、深手であったため数日後に死亡)。しかし、酔いがさめた源内は計画書を発見した。それは、源内が先程後でしまおうと思っておいてあったのであった。源内は自身の犯行を自首し、11月18日に伝馬町の牢獄に収容された。杉田玄白や前野良沢、中川淳庵や佐竹義敦、田沼意次らは源内の減刑を求めて行動したものの、彼らの努力が実ることはなかった。そうして、同年12月18日、源内は死去した。
平賀源内、享年52歳_____。死因は破傷風であった。自身の行く末に絶望して自殺を図ったとも、また自身の犯行を反省して絶食して死んだともされている。杉田玄白らの手により葬儀が行われたが、幕府の許可が下りず、墓碑もなく遺体もないままの葬儀となった。そうした源内の最期を憐れんでか、隠し持っていた小道具で脱出を図ったという説や、田沼意次の協力を得て讃岐に帰り、穏やかな晩年を過ごしたという説、いわゆる「平賀源内生存説」が流布していた。また、横たわる源内のそばで老若男女の人々が泣きながら源内の死を悼む「源内涅槃図」という絵画も作成された。
 源内の死後からほどなくして、下人の福助が病死し、弟子の小田野直武も後を追うように突然この世を去った。直武は源内が刃傷沙汰に及んだ後、藩の命令で帰還して謹慎生活を送っていたのだが、死因は今なお明らかではない。血の付いた着物が直武の遺品として発見されたが、自殺説や暗殺説、病死説など様々な説が推測されている*2。そして、直武と共に洋画を源内に教わっていた藩主・佐竹義敦の末路も悲しい。義敦は藩政の混乱により精神的に疲弊していたため、源内に洋画を習うことによって精神的な安らぎを得ていた。しかし、源内と直武が亡くなってからは悲しみに打ちひしがれて洋画への情熱を失い、筆をとることが徐々になくなっていった。そうして、元々病弱であったことも重なり、1785年に38歳の若さでこの世を去った。

評価 Edit

 源内の批評は、まさに「賛否両論」というべきであろう。
「源内は様々なことに挑戦した先駆者的存在だが、武家社会や世間の科学への無理解により活躍できる機会を奪われた悲劇の天才だ」という声も上がるが、一方で、
「源内は自身の才能を鼻にかけた尊大な人物で、多くの人に迷惑をかけ通しの一生であった。一つのことに専念せずあれやこれやと手を出したから失敗したのだ。結局のところ、彼は自己顕示欲が強いほら吹きだ」という意見も少なくない。
幕末から明治初期に活躍した佐賀藩士で東芝の開祖・田中久重は「反源内派」の最もたる立場で、源内のエレキテルをして「からくりを後世に遺せず無意味なものにした挙げ句、後世におけるからくりの立場を無闇に貶めた」とこき下ろしている。
 友人として源内の葬儀に参列した杉田玄白は源内の死を悼み、以下の碑文を残している。


嗟非常人(ああひじょうのひと)  好非常事(ひじょうのことをこのみ)  行是非常(おこないこれいじょう)  何死非常(なんぞひじょうにしするや) (あなたは大変に変わった人で、好みも行動も常識とは異なるものが好きであった。しかしあなたには、せめて死ぬときは畳の上で普通に死んでほしかった)


源内の生前の功績を称えながらも、源内の末路を一親友として嘆いているこの碑文は、源内死後は建立を許されなかったが、昭和時代になってようやく源内の墓のそばに建てられたという。

コメント Edit


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*1 のちに「解体新書」の扉絵を担当している
*2 みなもと太郎「風雲児たち」ではもともと患っていた病気(江戸にいたころに吐血する描写があることから結核ではないかと思われる)が悪化して老父母に看取られて亡くなっている、という描写がなされている

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