十三人の合議制 のバックアップ(No.29)

十三人の合議制とは、鎌倉時代初期の幕府の指導体制を指す歴史用語である。

合議制のあらまし Edit

建久10年(1199年)正月13日、初代鎌倉殿・源頼朝(1147~99)が急死する*1
そのわずか一週間後、頼朝の長男・頼家(1181~1204)は弱冠18歳にして左中将に任じられ、26日には朝廷から諸国守護の宣旨が下り、第2代鎌倉殿として頼朝の地位を継承した。
当初頼家は頼朝以来の側近・大江広元らの補佐を受けて政務を行っていたが、4月になり、頼家は裁判の判決を下す権限を失ってしまった。この理由としては、歴史書『吾妻鑑』には「頼家が従来の慣習を無視して己の思うがままに政治を運営しようとしたことで、頼家シンパの頼朝以来の側近(大江広元・中原親能・梶原景時)に対する他の有力御家人の不満・反発も起きたため」と記されているが、後述するように『吾妻鏡』に関しては北条家を持ち上げるスタンスで記されているため、その記述をそっくりそのまま信用することはできない。
ともあれ、有力者13人の合議により、裁判の判決が下されることになった。
668px-Minamoto_no_Yoriie.jpg
二代目鎌倉殿・源頼家。従来は「暗愚な二代目」と称されてきたが、近年は「才能はあったが、彼を取り巻く状況の不運が続いたことでせっかくの才能を生かす場がなかった」という描写をされることが多い。
画像出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Minamoto_no_Yoriie.jpg

合議制の実態 Edit

この合議制のシステムは、頼家が暗愚であったため、頼家による親政を阻止し、頼家の外戚・北条時政ら宿老13人の合議により取り計らい、彼ら以外の訴訟の取次を認めないと定めたことで執権政治への第一歩になったと理解されてきた。
頼家が暗愚であったという説の証拠としては、正治2年(1200年)の陸奥国新熊野社領の堺相論の逸話が挙げられる。
頼家は件の土地の地図を受け取ると、そこに縦に直線を引いてこう言い放ったという。


「所の広狭は其の身の運否に任すべし。使節の暇を費し、地下に実検せしむるにあたはず。向後堺相論の事に於いては、此の如く御成敗あるべし。若し未塵の由を存ずるの族に於いては、其の相論を致すべからず」(吾妻鏡)


ただし、同年8月には側近の僧・源性に陸奥国伊達郡の堺相論の実検に下向させているなど、頼家による親政が行われた例もあって、このことが頼家が決して無能な主君ではなかったという証明となり、十三人の合議制のシステムの詳細をより不透明なものにしている。
近年の研究では、この体制に将軍の独断を防ぐ機能を認めつつも、宿老の合議を経て頼家が最終判断を下す方式をとったもので、頼家の親裁そのものを否定してはいないとされる。
問注所の開設や拡大、政所の整備という点でも、まだ若い頼家の補佐のためのシステムであったという見解がある。

十三人の合議制のメンバー Edit

  • 北条時政(1138~1215)
    伊豆の国の豪族。長女の政子が頼朝と結婚したため、頼朝の挙兵を助けた。亀の前事件*2の際には頼朝に腹を立て伊豆に隠居するが、数年後に鎌倉に戻り、頼朝を支える。執権に就任し、将軍の血縁者として権力を高めるが、後妻の牧の方と共謀した牧氏事件によって失脚し、故郷の伊豆に帰って穏やかな生活を送る。
  • 北条義時(1163~1224)
    時政の次男。姉の政子が頼朝と結婚したため、父・時政や兄・宗時(石橋山の戦いで戦死)とともに頼朝の挙兵を助けた。時政失脚後に2代目執権に就任し、弟・時房と共に幕政を動かしていく。
  • 比企能員(よしかず)(?~1203)
    頼朝の乳母・比企尼の養子。娘の若狭局が頼家に嫁ぎ、一幡を産んだ。また、姪で養女でもある姫の前*3は北条義時に嫁ぎ、朝時や重時を産んでいる*4。頼朝死後は将軍の血縁者として北条時政と対立し、時政の「仏事を行うため、いったん対立関係は解消したい。一度我が北条の館に来てくれ」という誘いに乗り、時政の手の者に討たれた(比企の乱)。妻子も時政の指示を受けて動いていた御家人に殺害された。孫の一幡も比企の乱の直後、北条義時の家人に殺害されている(後述)。
  • 梶原景時(?~1200)
    当初は大庭景親の郎党として平家方にくみしたが、石橋山合戦において洞窟に潜伏していた頼朝を目撃しながらもやり過ごす。以降は景親らを見限って頼朝に側近として仕え、頼朝からは忠実な仕官の様子やかつて自身をやり過ごしてくれた恩義から「一の郎党」と重用される。しかし、軍議の最中に義経と口論になることが多く、義経の粗暴かつ軍律違反に該当するようなふるまいを頼朝に逐一報告していた。景時からすれば、義経の行為は集団の結束力を弱めかねない者だったので、景時も職務上それを見過ごすわけにはいかなかったのだが、結果としてそれが義経死亡の遠因となったため、千葉常胤など、義経の戦法を高く評価し、非業の最期に同情していた御家人たちからは憎まれていたという。
  • 和田義盛(1147~1213)
    三浦義明の孫で、三浦義村の従兄弟。初代別当に就任し、平家討伐や奥州藤原氏の征伐で戦功をあげる。頼朝、頼家、実朝と3代に渡って仕え続けたが、泉親衡の乱で甥・胤長がこの反乱に加担したことが義時に知られてしまい、助命を嘆願するも聞き入れられなかった。この一件で義時に失望し、大規模な反乱を起こす。
  • 八田知家(1142?~1218?)*5
    頼朝の乳母・寒川尼の弟。頼朝の挙兵に応じ、平家討伐においては範頼をよく補佐したという。頼朝からの信頼が厚く、頼朝の父・義朝の落胤説があった。実朝の渡宋計画(失敗)を境に記録が消えはじめるが、史料によっては「承久の乱の際に後方支援にあたった」という記述がみられるという。
  • 安達盛長(藤九郎)(1135~1200)
    頼朝の乳母・比企尼の娘婿で、頼朝の伊豆配流時からの側近。北条家と並び、頼朝が最も信用していた御家人であるという。子の景盛が頼家に妻を奪われた際に、景盛とともにこれを諌めた。
  • 足立遠元(1130?~1207?)*6
    武蔵国の豪族。頼朝の挙兵にいち早く馳せ参じた。また、文官としての才能も高かった。安達盛長は遠元から見て年下の叔父に当たる。
  • 三浦義澄(1127~1200)
    三浦義明の子。頼朝の挙兵には計画時から参加していた。頼朝からは三浦氏の長として重んじられた。子の義村は13人の合議制のメンバー入りを辞退したものの、北条義時・泰時父子からの信頼は高く、二人をよく補佐した。
  • 大江広元(1148~1225)
    公卿の名門・大江氏の出身。戦国大名・毛利氏*7の祖。朝廷でまじめさ故にうだつが上がらなかった頃、頼朝の招きを受け、鎌倉に下向し、文官として強い信任を得る。「成人してからこのかた、涙を流したことがない」と、後年自ら述懐したという逸話があるほど、冷静な人物だったらしい。
  • 中原親能(ちかよし)(1143~1209)
    大江広元の兄。頼朝とは親しく、広元より先に鎌倉に下って軍事や政務を補佐。帰洛してからは幕府と朝廷の仲介人として政務に携わる。
  • 三善康信(1140~1221)
    朝廷に仕える下級の公卿。頼朝とは文通で親交を結び、治承・寿永の乱のきっかけは、康信の頼朝宛ての手紙であるといわれる。幕府成立時に鎌倉に招かれた。頼朝の死後は頼家や実朝の教育係を務める。
  • 二階堂行政(1130年代後半?~?)
    京下りの下級公卿。鎌倉二階堂に居を構え、二階堂の名字を名乗る。北条義時の3番目の妻・伊賀の方*8は、行政からみて孫娘に当たる。実朝の将軍就任期には出家し隠居したが、その後の動向は不明。

合議制はどのような結末を迎えたか? Edit

 十三人の合議制の成立から数カ月後、頼家の妹に当たる三幡が夭折すると、その教育係であった中原親能はこれを深く悲しみ、菩提を弔うため剃髪し、帰洛した。だが、これをもって完全に政界を引退したというわけではなく、帰洛してからも幕府と朝廷をつなぐパイプのような役割を担っている。親能は1205年に牧氏の変が勃発し、その元凶とみなされた平賀元雅が殺害されてからは政務を引退し、4年後にひっそりと世を去っている。
 その後程なくして梶原景時が多くの御家人からの恨みを買って追放され、幕府に反乱を起こす。もともと景時は頼朝の信頼が高く、十三人の御家人の筆頭として選ばれたが、彼は仕事はできるものの、他人の仕事の欠点や失敗を上司にオブラートに包まず、ひどい場合には少し誇張して将軍に報告するという悪癖があったため、多くの御家人から嫌われていた。要はその真面目さが暴走して「正義マン」のようになっていたのだ。
ある日、頼朝以来の忠臣の結城朝光が「『忠臣二君に仕えず』というが、自分もそれに倣いあの時(頼朝の死後)出家すべきだった。今の世はなにやら薄氷を踏むような思いがする」とボヤいていたのを聞きつけ、頼家に朝光への処分を要求する。この朝光の発言は、頼朝の急逝以来、ギスギスし始めていた幕府の組織としての状況を憂いたものであったが、景時は「仕えるべきは先代の頼朝様であって頼家様ではない。頼家様は嫌だ!頼家様は嫌だ!スリザリン頼家様は嫌だ!」と悪い意味にとってしまったのだ。やがて、自身に処分が下されるという話を女官の阿波局*9から聞かされた朝光は、このことを他の御家人に相談する。結果として、朝光に同情し、景時の言いがかりともとれる要請に激怒した御家人たち66名は、「景時への糾弾・排斥」を記した連判状を頼家に提出した。頼家は景時を信頼していたものの、ここで景時を擁護すれば多くの御家人が自身に反旗を翻し、結果として幕府が崩壊してしまうことになるため、断腸の思いで景時を追放したのであった。景時は一時一族郎党共に自領に謹慎していたものの、正治2年(1200年)、突如京に向けて兵を動かす。景時やその子の景季はその道中、駿河国にて討たれたのであった。
景時の反乱が鎮圧されると、安心したのか、あるいは精神的な疲れが老体に押し寄せたのか、程なくして安達盛長と三浦義澄があいついで老衰のため死去する。
 さらに、1203年、頼家が突然体調不良を起こして昏倒し、8月には人事不省、危篤に陥った。晩年の頼朝とほぼ同じ症状であった。ここで、「死期の近い鎌倉殿の後釜をだれにするか」という問題が持ち上がった。比企側は、頼家の嫡男で若狭局のとの間の子である一幡(いちまん)を後継と考えた一方で、北条側は頼家の弟で一幡の叔父にあたる千幡(のちの源実朝)を後継に据えようと画策。「自分が外戚として振る舞える人物を後釜に」というそれぞれの目論見が衝突した形であった。敵同士とはいえ、当初は事を荒立てるつもりはなかった北条時政・義時父子は譲歩案として「東西を北条と比企で分割統治する」という案を出したが、比企能員はこれに反発。同年九月、業を煮やした時政父子は「仏事」という名目で能員を自宅に呼び寄せ、だまし討ちした。この時、能員の従者が逃げ延び、能員が討たれたことを遺族に報告。遺族は一幡が住む屋敷に一族で集結し立て籠もったが、これが鎌倉に対する謀反とみなされ、結果として一族郎党討たれ、この時わずか数えで6歳であった一幡も命を落とした。こうして、比企家は1日の間に滅亡した。その数日後、頼家は奇跡的に回復するが、頼家の回復を予測していなかった北条氏は、すでに頼家の死亡届と「次期将軍が千幡である」という届け出を朝廷に提出していた。しかも、一説にはこれらの届け出は、比企家族滅の前日に出されていたといわれる。もっとも、父親の頼朝は落馬して昏睡状態に陥ってからそのまま死去したため、頼家の場合も人事不省の期間が長く続いた以上、そのまま死去してしまう可能性は否定できなかったと言えばそれまでだが。自身が人事不省に陥っている間の一連の出来事を知った頼家は当然激怒し、すべての黒幕である時政の追討礼を御家人に出すが、これに従う御家人はほとんどいなかった。唯一、北条氏の比企氏殲滅に協力した仁田忠常が、頼家への忠誠心から翻意して北条氏に宣戦布告したが、衆寡敵せず討ち取られている*10
 大きな後ろ盾であった比企氏を失い、将軍職も弟に移譲されてしまった今、もはやどうあがいても頼家に勝機はなかった。頼家は強制的に出家させられて身柄を修善寺に拘束され、翌年には同地で憤死した。死因は『愚管抄』*11などの複数の史料から北条氏による暗殺であるとほぼ確定しているものの、『吾妻鏡』には「頼家の死亡通知が鎌倉に届いた」とのみ記されている。これは、『吾妻鏡』が北条氏を賛美する立場で書かれており、将軍の暗殺という出来事は北条氏にとって大きな汚点であったので、それをひた隠しにする意図があったものと推測される。
以下に、頼朝死後から貞永式目制定に至るまでの鎌倉幕府の動静を年表として記す。

1199年源頼朝、落馬により急逝
頼家、左中将・鎌倉殿就任
十三人の合議制発足
頼朝の次女・三幡が病死、中原親能帰洛
梶原景時、失脚
1200年梶原景時の変(景時敗死、梶原氏滅亡)
安達盛長、病没
三浦義澄、病没
1202年阿野全成*12、比企能員の策謀で甥の頼家により斬首刑を宣告される
1203年比企能員の変(能員謀殺、比企氏滅亡)
源頼家、伊豆修善寺に幽閉される
頼家の長子の一幡、北条義時の郎党の藤馬*13に殺害される
1204年源頼家、伊豆修善寺にて憤死
頼朝の三男の千幡、源実朝と改名し鎌倉殿就任
1205年足立遠元、武蔵国に戻り隠居(1207年以降死去?)
畠山重忠の乱
牧氏事件(北条時政失脚、妻の牧の方*14とともに伊豆に流罪)
北条義時、執権就任
牧氏事件の首謀者の平賀朝雅(牧の方の娘婿)、幕府に討たれる
1209年中原親能、病没
1213年泉親衡*15の乱
和田合戦(和田義盛敗死、和田氏滅亡)
1214年実朝、陳和卿*16とともに大船造立、渡宋を計画(失敗)
1215年北条時政、伊豆にて病没
1218年北条義時、薬師堂建立
1219年源実朝、鶴岡八幡宮にて甥の公暁に討たれる。源仲章、公暁に北条義時と誤認されて討たれる
公暁、三浦義村に謀殺される
1221年後鳥羽上皇、北条義時追討の院宣を出す。北条政子の演説
承久の乱。幕府方の圧勝
後鳥羽上皇は隠岐島へ、土御門上皇は土佐へ、順徳天皇は佐渡へ流される
1224年北条義時、急逝(毒殺説あり)
1225年伊賀氏の変*17、連署を設置
大江広元、病没*18
北条政子、病没
1232年北条泰時、貞永式目(御成敗式目)制定

コメント Edit


URL B I U SIZE Black Maroon Green Olive Navy Purple Teal Gray Silver Red Lime Yellow Blue Fuchsia Aqua White

閲覧者数 Edit

現在9
今日1
昨日0
合計875

*1 落馬したことにより昏睡状態に陥り、後継者を任命することなくそのまま死去した。「落馬するということ自体武家の棟梁としてあり得ない」という思想から、一時は毒殺説もあったが、落馬するまでは毎日水を極端に飲んでいたことから、おおもとの原因は「飲水の病」、つまり生活が貴族化したことに起因する「糖尿病」だったのではないかと推測される。
*2 頼朝が政子の妊娠中に政子の母体を気遣うことなく、亀の前という女性と浮気しており、それを知って腹を立てた政子が侍女に亀の前の自宅を破壊させた事件。この際、頼朝は不義理を反省するどころか、亀の前の邸宅を破壊せしめた政子を叱責した
*3 NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に登場する『比奈』に該当する人物
*4 比企の乱の後、義時と離縁して4年後に病死
*5 1221年の承久の乱以降も生存していたという説もある
*6 隠居時にはすでに70代を超えていたと言われる
*7 子の季光の代から「毛利」の名字を名乗る
*8 NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に登場する『のえ』に該当する人物。政村を産み、義時の死後、政村に家督を継がせるため暗躍する
*9 北条時政の娘で、義時の異母妹。『鎌倉殿の13人』における「実衣」にあたる人物
*10 『鎌倉殿の13人』では、忠常は比企氏攻めに関わったことへの自責の念と、頼家への忠誠心の板挟みとなって煩悶し、義時に悩みを打ち明けようとしたが、折悪しく義時が相談に乗ることができなかったために苦しみを一層募らせ、ついには自殺してしまったという悲劇的な描写がなされている
*11 その史料において、頼家の死因は「抵抗するところを北条の家臣にふぐり(男性器)を切り取られ、首を絞められて殺害された」とされている
*12 頼朝の異母弟。幼名は今若。義経(牛若)や義円(乙若)は同母弟
*13 NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』のオリジナルキャラクターの「トウ」のモデル
*14 NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に登場する「りく」にあたる人物
*15 素性が明らかにされていない武士。『鎌倉殿の13人』では義時を追い落とすために源仲章(実朝の教育係)が泉親衡の名を騙り、和田一族が反乱を起こすように仕向けたという描写がなされている
*16 南宋からの渡来僧
*17 義時の後妻・伊賀の方が実子・政村を擁立し、義時の長男・泰時の家督継承を不服としてクーデターを起こした事件
*18 大江広元の死をもって十三人の合議制のメンバーが全員歴史の表舞台から去る

ホーム リロード   新規 下位ページ作成 コピー 編集 添付 一覧 最終更新 差分 バックアップ 検索   凍結 名前変更     最終更新のRSS