日本史年表 のバックアップ(No.27)

このページでは、日本史の古代から現代にいたるまでの出来事を年表にまとめている。時代区分は、高校日本史の指導要領に拠った。また、室町後期、いわゆる「戦国時代」は出来事の記載が多くなるので項目を立てて独立化させ、江戸時代は「幕末」以前の出来事は「近世」の項目に組み込み、「幕末」以降の出来事はこちらも記載が多くなり、特定項が冗漫化してしまうのを避けるため「近代」の項に組み込んだ。「昭和時代」を「戦前」「戦後」をそれぞれ「近代」「現代」の項目に振り分けたのもまた同じ理由である。
※追記・修正大歓迎!

古代 Edit

西暦出来事

旧石器時代・縄文時代 Edit

紀元前2万年頃現生人類が入植
紀元前3500年頃三内丸山遺跡(青森県)に定住型の大規模集落が形成
紀元前1500年頃三崎山遺跡(山形県)において青銅刀が使用される
紀元前1000年頃亀ヶ岡遺跡(青森県)などで遮光器土器が盛んに作られる

弥生時代 Edit

西暦出来事
紀元前1000年頃菜畑遺跡(佐賀県佐賀市)や板付遺跡(福岡県福岡市)などでの水稲栽培の開始
紀元前300年頃吉野ケ里遺跡に大規模な環濠集落が形成される
57年倭の奴国王、後漢に遣使し、光武帝から印綬を受ける
107年倭の面土国*1の王・帥升*2が後漢に遣使
180年(推定)倭国大乱
239年邪馬台国の女王卑弥呼、魏に遣使し、金印紫綬を授かる
邪馬台国と狗奴国の抗争激化
266年邪馬台国の台与(とよ)*3が西晋に遣使

古墳時代 Edit

西暦出来事
316年仁徳天皇が民衆の税を三年間免除
4世紀前半巨大な前方後円墳が数多く造営される
4世紀中頃(推定)ヤマト王権の成立
369年百済の近肖古王が倭王に七支刀を献上
391年~404年ヤマト王権による朝鮮半島侵攻(第一次倭・高句麗戦争)
413年~5世紀末倭の五王(讃*4・珍*5・済*6・興*7・武*8)、中国南朝の宋に朝貢
421年倭王讃、中国南朝の宋に遣使
438年倭王珍、中国南朝の宋に遣使し、「安東将軍倭国王」の称号を賜る
443年倭王済、宋に遣使し、「安東将軍倭国王」の称号を賜る
451年倭王済、「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東将軍倭国王」の称号を賜る
462年倭王の世子・興、「安東将軍 倭国王」の称号を賜る
464年ヤマト政権によるニ度目の朝鮮半島侵攻(第二次倭・高句麗戦争)
479年倭王武、宋に遣使し、「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東将軍 倭国王」の称号を賜る
507年武烈天皇に子がなく、北陸から継体天皇が迎えられる
527年筑紫国造磐井(ちくしのくにみやつこいわい)の乱。物部麁鹿火(もののべのあらかひ)により鎮圧
538年(552年説あり)百済の聖明王、経典と仏像を献上(仏教公伝)。儒教もこのころ伝わったと推定される
540年伽耶問題*9で大伴金村が失脚
552年蘇我稲目と物部尾輿が崇仏争論を展開
562年伽耶(任那)が新羅により滅亡
587年丁未の変(蘇我馬子が物部守屋を滅ぼす)

飛鳥時代 Edit

西暦出来事
592年崇峻天皇、蘇我馬子の名を受けた東漢駒(やまとあやのこま)により暗殺
593年推古天皇(歴史上初の女帝)が即位。厩戸王(聖徳太子)の摂政開始
厩戸王、四天王寺を建立
600年史料上初の遣隋使派遣*10
603年厩戸王、冠位十二階を制定
604年厩戸王、十七条憲法を制定
607年小野妹子を隋に派遣する*11
厩戸王、法隆寺を創建
622年厩戸王死去
630年第1回遣唐使・犬上御田鍬を派遣
643年山背大兄王(厩戸王の子)、蘇我入鹿に滅ぼされる
645年中大兄皇子と中臣鎌足、蘇我氏の直系を滅亡させる(乙巳の変)。大化改新の嚆矢
高向玄理(たかむこのくろまろ(げんり))(みん)、国博士に任命
646年改新の詔
649年右大臣・蘇我倉山田石川麻呂が謀反の疑いを受け、自害。中大兄皇子が蘇我氏の権力増強を恐れたため、罪を着せて粛清したものと考えられる
652年最初の班田収授が施工される
658年有馬皇子、謀反の計画が暴露されてだまし討ちに遭う
660年百済滅亡。鬼室福臣(きしつふくしん)などの百済の王族の生存者や遺臣が日本に渡来
663年白村江の戦い。倭国軍が唐・新羅連合軍に惨敗し、朝鮮半島における倭の勢力圏の完全消滅。倭は唐・新羅からの侵攻に備えて西日本各地に大野城や水城(みずき)を設立)
668年高句麗滅亡。高句麗人が日本に渡来
中大兄皇子が即位。「天智天皇」として知られる
672年壬申の乱。天智天皇の甥・大海人皇子が即位。「天武天皇」として知られる。天智天皇の太子・大友皇子は敗戦後自殺
飛鳥京に遷都
683年頃富本銭の鋳造
684年八色の姓を制定
白鳳地震
694年藤原京に遷都
697年持統天皇、草壁皇子の子・軽皇子(のちの文武天皇)へ譲位
701年大宝律令の成立。倭国、国号を「日本」と定める*12

奈良時代 Edit

西暦年号出来事
710年和銅3年平城京への遷都
712年和銅5年稗田阿礼らにより『古事記』成立
718年養老2年養老律令の成立*13
720年養老4年『日本書紀』成立
僧侶による社会事業が諸国で行われる。代表的な人物は行基
723年養老7年三世一身法
727年神亀4年渤海使が初めて渡来
729年神亀6年長屋王の変。長屋王、藤原4兄弟に館を襲撃されて妻子とともに自殺
729年天平元年聖武天皇の后に光明子(光明皇后)を冊立
735年~737年天平7~9年天然痘大流行。藤原4兄弟、天然痘により全員死去
740年天平12年藤原広嗣の乱
聖武天皇、恭仁京の建設を開始
741年*14天平13年聖武天皇による諸国への国分寺・国分尼寺建立の詔
743年天平15年墾田永年私財法
752年天平勝宝4年東大寺大仏の開眼供養。聖武太上天皇も出席
754年天平勝宝6年唐出身の僧の鑑真、来朝して律宗を伝える
757年天平宝字元年橘奈良麻呂の乱
758年天平宝字2年孝謙天皇が譲位し、淳仁天皇が即位する
759年(推定)天平宝字3年(推定)『万葉集』成立
764年天平宝字8年藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱)
765年天平神護元年道鏡、太政大臣禅師に就任
769年神護景雲3年宇佐八幡宮神託事件。和気清麻呂、左遷の上「別部穢麻呂(わけべのきたなまろ)」に改名
784年延暦3年長岡京への遷都
785年延暦4年長岡京建設の責任者であった藤原種継が暗殺され、桓武天皇の弟・早良親王が流罪となる。大伴家持が藤原種継暗殺事件に関与したという容疑をかけられ官位剥奪*15
788年延暦7年最澄が延暦寺建立

平安時代(院政以前) Edit

西暦年号出来事
794年延暦13年桓武天皇、平安京に遷都
801年延暦20年坂上田村麻呂、阿弖流為を降伏させ蝦夷を平定
805年延暦24年藤原緒継と菅野間道のあいだで徳政相論が行われる。桓武天皇、蝦夷征討と平安京造都を停止
810年弘仁元年蔵人所設置
薬子の変。平城上皇と嵯峨天皇が対立するが、平城上皇が出家して決着。平城上皇の妾の藤原薬子は服毒自殺、その兄の仲成は射殺
816年弘仁7年空海が金剛峯寺を建立
このころ検非違使を置く
833年天長10年令義解の撰上
842年承和9年承和の変。藤原良房、伴健岑(とものこわみね)橘逸勢(たちばなのはやなり)を陥れてそれぞれ隠岐、伊豆へ配流。藤原氏による他氏排斥の始まり
858年天安2年藤原良房、人臣として初めて摂政となる
866年貞観8年応天門の変。大納言・伴善男(とものよしお)が「応天門への放火は左大臣・源信(みなもとのまこと)の犯行である」と告発したが、密告により放火の真犯人が伴善男父子とみなされ、流罪となる
869年貞観11年貞観地震
887年仁和3年藤原基経、関白となる
仁和地震
888年仁和4年阿衡の紛議。藤原基経、「詔勅中の『阿衡』の職務は名ばかりの実務がともなわない職」と宇多天皇に抗議し、一切の職務を放棄。宇多天皇は詔勅を撤回し、詔勅の起草者である橘広相(たちばなひろみ)を処罰して両者の間に和解が成立
893年(推定)寛平5年(推定)初めて滝口の武士を置く*16
894年寛平6年菅原道真の提言により遣唐使を廃止する*17
901年昌泰4年昌泰の変。菅原道真、藤原時平の讒言により大宰権帥に左遷される
905年延喜5年『古今和歌集』成立
927年延長5年延喜式の撰上(施行は967年(康保4年)から)
935年承平5年平将門、伯父の平国香を討つ(承平の乱)
937年承平7年平将門の追捕を命じる官符を下す
939年天慶2年平将門の乱。将門、自らを「親王」と名乗る
939年天慶2年藤原純友*18の乱(天慶の乱)
940年天慶3年平貞盛(平国香の遺児)・押領使藤原秀郷ら、平将門を討つ
941年天慶4年押領使源経基(みなもとのつねもと)(清和源氏)・追捕使小野好古ら、藤原純友を討つ
969年安和2年安和の変。源満仲らの謀反の密告により左大臣・源高明が失脚。これ以降、摂政・関白が常置
988年永延2年尾張の郡司・百姓ら、国守藤原元命の非政を訴える
1000年~1014年頃長保2年~長和3年頃清少納言の『枕草子』、紫式部の『源氏物語』が成立
1017年寛仁元年藤原道長、太政大臣に就任
1019年寛仁3年刀伊の入寇
1028年長元元年平忠常の乱。東国に河内源氏が進出
1051年永承6年前九年の役。安倍氏滅亡
1069年延久元年延久の荘園整理令。記録荘園券契所が設置される
1073年延久5年院の蔵人所を設置
1083年永保3年後三年の役。清原氏滅亡、奥州藤原氏の台頭

中世 Edit

平安時代(院政以降) Edit

西暦年号出来事
1086年応徳3年白河上皇、院政を開始*19
1098年承徳2年源義家、昇殿を許される。初めて武士が殿上人となる
1108年天仁元年源義親の乱。義親、平正盛に討たれる
1132年長承元年平忠盛(清盛)、昇殿を許される
1156年保元元年保元の乱。朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分かれ争う。後白河天皇方が勝利し、崇徳上皇は讃岐に配流
1159年平治元年平治の乱。平清盛、源義朝を破る*20
1167年仁安2年平清盛、太政大臣に就任
1169年(1179年説あり)仁安4年後白河法皇、『梁塵秘抄』を著す
1173年承安3年平清盛、日宋貿易を開始。公式的な国交ではなかったが、商人間の交易が続くこととなった
1175年承安5年法然が専修念仏を唱え始める
1177年治承元年鹿ケ谷の陰謀。会合に居合わせた源氏の武士・多田之綱が平清盛に密告したことで露見。後白河法皇、謀反船頭のかどで幽閉さる。藤原成親は一旦は助命されて備前国に配流されるが、崖から突き落とされて死亡。西光(藤原師光(ふじわらのもろみつ))は拷問の上斬首。僧・俊寛は鬼界ヶ島に配流され、自ら絶食して死ぬ
1180年治承4年4月以仁王、平家追討の令旨を発し、源頼政らとともに挙兵するが失敗
治承4年6月福原行幸
治承4年8月石橋山の戦い。源頼朝、伊豆国で挙兵するが惨敗
治承4年10月富士川の戦い
1181年治承5年1月平清盛による南都焼討
治承5年3月平清盛、熱病(マラリア?)で死去
養和元年養和の大飢饉
1183年寿永2年5月倶利伽羅峠の戦い。木曽義仲挙兵
寿永2年10月寿永二年十月宣旨
寿永2年11月水島の戦い
1184年寿永3年1月宇治川の戦い
寿永3年2月一ノ谷の戦い。源義経ら、摂津国福原で平家軍に大勝
寿永3年頼朝、鎌倉に公文所・問注所を置く
1185年寿永4年2月屋島の戦い
寿永4年3月壇ノ浦の戦い。平家滅亡。安徳天皇入水

鎌倉時代 Edit

西暦年号出来事
1185年文治元年源頼朝、文治の勅許を得て、諸国に守護と地頭を設置
1189年文治5年閏4月源義経、庇護を受けていた奥州藤原氏四代目・泰衡からの襲撃を受けて衣川の館で戦死
文治5年7月~9月源頼朝、奥州藤原氏を滅亡させる
1192年建久3年源頼朝、征夷大将軍に任ぜられる
1199年建久10年源頼朝、急死。家督を長男・頼家が継承
頼家、左中将・鎌倉殿就任
十三人の合議制発足
梶原景時、失脚
1200年正治2年梶原景時の変(景時敗死、梶原氏滅亡)
1202年建仁2年阿野全成*21、比企能員の策謀で甥の頼家により斬首刑を宣告される
1203年建仁3年比企能員の変(能員謀殺、比企氏滅亡)
源頼家、伊豆修善寺に幽閉される
頼家の長子の一幡、殺害される
1204年元久元年源頼家、暗殺される
頼朝の三男の千幡、源実朝と改名し鎌倉殿就任
1205年元久2年畠山重忠の乱
牧氏事件(北条時政失脚、妻の牧の方とともに伊豆に流罪)
牧氏事件の首謀者の平賀朝雅(牧の方の娘婿)、幕府に討たれる
1213年建暦3年泉親衡の乱
和田合戦(和田義盛敗死、和田氏滅亡)
1214年建保2年実朝、陳和卿*22とともに大船造立、渡宋を計画(失敗)
1215年建保3年北条時政、伊豆にて病没
1218年建保6年北条義時、薬師堂建立
1219年建保7年・承久元年源実朝、鶴岡八幡宮にて甥の公暁に討たれる。源氏将軍断絶。源仲章、公暁に北条義時と誤認されて討たれる
公暁、三浦義村に謀殺される
1220年承久2年慈円、『愚管抄』を成立させる
1221年承久3年後鳥羽上皇、北条義時追討の院宣を出す。北条政子の演説
承久の乱。幕府方の圧勝。後鳥羽上皇は隠岐島へ、土御門上皇は土佐へ、順徳天皇は佐渡へ流される。六波羅探題の設置
1224年元仁元年北条義時、急逝(毒殺説あり)
1225年元仁二年伊賀氏の変*23。連署の設立
1226年嘉六2年九条(藤原)頼経*24が征夷大将軍に就任。摂家将軍の始まり
1232年貞永元年北条泰時、貞永式目(御成敗式目)制定
1246年寛元4年宮騒動。北条家の分家筋・名越光時*25による反乱未遂事件。首謀者と見なされた将軍・九条頼経が鎌倉から追放
1247年宝治元年宝治合戦。三浦氏滅亡
1249年建長元年引付衆の設置
1252年建長4年将軍・九条頼嗣を京へ送還、宗尊親王が将軍に就任。宮将軍の開始
1260年正元2年琉球王英祖が即位?
1266年文永3年・至元3年元皇帝フビライ・ハーン(クビライ・カアン、忽必烈汗)、「大蒙古国皇帝奉書」とともに国交の使者を送る。以降5回にわたって国書を送付
1268年文永5年北条時宗、執権就任
1272年文永9年二月騒動
1274年文永11年文永の役。1度目の「元寇」
1275年健治元年大宰府に派遣された元の使者・杜世忠(とせいちゅう)らが鎌倉に護送されたのち、龍ノ口にて斬首
1281年弘安4年弘安の役。2度目の「元寇」
1285年弘安8年霜月騒動
1286年弘安9年両統迭立の議、起こる。翌年、大覚寺統の後宇多天皇が譲位し、持明院統の伏見天皇が即位
1293年永仁元年鎌倉大地震
平禅門の乱
1297年永仁5年永仁の徳政令
1305年嘉元3年嘉元の乱
1317年文保元年文保の和談
1324年正中元年正中の変
1325年正中2年安藤氏の乱。津軽で蝦夷が蜂起し、蝦夷代官職の安藤氏を討った事件が発端となる
1331年元弘元年後醍醐天皇、山城国笠置山で挙兵
兼好法師、『徒然草』を成立させる
光厳天皇が即位する。北朝の初め
1333年元弘3年5月11日小手指原の戦い。新田義貞vs鎌倉幕府
元弘3年5月12日久米川の戦い。新田義貞vs桜田貞国
元弘3年5月15日分倍河原の戦い。新田義貞vs北条泰家
元弘3年5月16日関戸の戦い。新田義貞vs北条泰家
元弘3年5月22日東勝寺合戦。執権・北条高時が一族もろとも自害。鎌倉幕府が滅亡

建武の新政 Edit

西暦年号出来事
1333年元弘3年護良親王、征夷大将軍就任
記録所・雑訴決断所・武者所を設置
1334年建武元年建武の新政。後醍醐天皇による親政が開始されるが、徹底した貴族中心主義により、かつて倒幕に尽力した足利尊氏ら武士の怒りを買う
『二条河原の落書』が掲げられる。「此頃都ニハヤル物…」
1335年建武2年中先代の乱。北条高時の遺児・時行が御内人の諏訪頼重らに擁立され、鎌倉幕府再興のため挙兵し、鎌倉を一時的に支配するが足利尊氏により鎮圧
1336年延元元年(北朝 建武3年)多々良浜の戦い
湊川の戦い。楠木正成戦死

南北朝時代 Edit

南朝 Edit

西暦年号出来事
1336年延元元年後醍醐天皇、吉野へ還幸。南朝の初め
1339年延元4年北畠親房が『神皇正統記』*26を成立させる
1348年正平3年(北朝 貞和4年)四條畷の戦い

北朝 Edit

西暦年号出来事
1336年北朝 建武3年足利尊氏、是円・真恵らに命じて『建武式目』を制定
1338年北朝 暦応元年足利尊氏、征夷大将軍に補任され、京都に幕府を開く。室町幕府のはじまり
1349年北朝 貞和5年鎌倉府設置
1350年~1352年北朝 観応元年~北朝 観応3年観応の擾乱。足利尊氏・高師直vs足利忠義・忠冬父子。尊氏軍の勝利。忠義は乱の終結後急死(毒殺説が根強い)
1361年北朝 康安元年/南朝正平16年正平地震
1368年北朝 応安元年武蔵平一揆の乱。この一機を発端として応安の半済令を施行
1378年北朝 永和4年足利義満、京都室町通今出川付近に新邸・花の御所を造営
1379年北朝 康暦元年康暦の政変。室町幕府管領・細川頼之が失脚
1389~1390年北朝 康応元年~北朝 明徳元年土岐康行の乱。美濃の守護大名・土岐康行が幕府に討たれる
1391年北朝 明徳2年明徳の乱。「六分一殿」こと山名氏清が幕府に対して反乱を起こす
1392年元中9年(北朝 明徳3年)明徳の和約。南北朝合一

室町時代 Edit

西暦年号出来事
1394年応永元年足利義満、太政大臣就任
1399年応永6年応永の乱。長門の守護大名・大内義弘が幕府に対し反乱を起こし討たれる
1401年応永8年将軍足利義満、日明貿易(勘合貿易)の開始(1411年に一時断絶)。正使に僧侶・祖阿(そあ)を、副使に博多の同朋衆の一人・肥富(こいつみ)を派遣
1416年応永23年上杉禅秀の乱。関東管領の上杉氏憲が幕府に対し反乱を起こす
1419年応永26年応永の外寇。李氏朝鮮による対馬への侵攻。朝鮮軍の惨敗に終わる。対馬と朝鮮の通交関係の回復
1428年正長元年正長の土一揆。興福寺が徳政令を出す。「正長元年ヨリサキ者カンヘ四カンカウニヲヰメアルヘカラス」(正長元年以前の神戸四カ郷への負債は帳消しにする)
1429年正長2年播磨の国一揆。守護・赤松満祐により鎮圧
永享元年大和永享の乱。興福寺大乗院衆徒の豊田氏と興福寺一乗院衆徒の井戸氏の対立が大和国内で大規模化した
尚巴志王が琉球を統一し、琉球王国が興る
1438年~1439年永享10年~永享11年永享の乱。鎌倉公方・足利持氏vs関東管領・上杉憲実の対立
1440年永享12年結城合戦。結城氏朝が持氏の遺児の安王丸・春王丸・永寿王丸を奉じて挙兵。安王丸と春王丸は殺害されたが、永寿王丸は京都に護送され、長じて足利成氏(しげうじ)を名乗る
1441年嘉吉元年嘉吉の乱。将軍・足利義教*27が守護・赤松満祐に暗殺される。ほどなくして赤松満祐は幕府軍に討たれる。義教亡き後は将軍職を義教の長男・義勝が継ぎ、義勝が数年で亡くなってからは幼い次男・義政が将軍職に就いたが、強力な権利を持った将軍は義教の代で終わった
1443年嘉吉3年嘉吉条約。李氏朝鮮と対馬の間の貿易に関する協定。通交船や交易量の制限を定める
1454年~1483年享徳3年~文明14年享徳の乱。足利成氏vs山内上杉家・扇谷上杉家。関東における戦国時代の始まり
1455年享徳4年鎌倉公方足利成氏、鎌倉府から古河府に遷座
1457年長禄元年コシャマインの戦い。アイヌ人酋長・コシャマインが花沢館主蠣崎季繁の家臣・武田(蠣崎)信広に討たれる
太田道灌が江戸城築城
1458年長禄2年東国に古河公方と堀越公方が並立
1466年文正元年文正の政変。代将軍足利義政の側近・伊勢貞親と季瓊真蘂(きけいしんずい)が諸大名の反発を買って追放される

戦国時代 Edit

西暦年号出来事
1467年~1477年応仁元年~文明9年応仁の乱。幕府の管領家の畠山氏と斯波氏を争いを発端とし、そこから足利義政の跡継ぎ問題(義政の弟・義視(よしみ)vs義政の実子・義尚(よしひさ))も絡み、更に細川勝元と山名宗全ら有力な守護大名同士の争いに発展し、幕府が東軍と西側に分裂して戦乱となる。細川・山名の両者が病死してからは戦闘が膠着化し、諸国にも戦乱が拡大
1485年~1493年文明17年~明応2年山城国一揆
1486年文明18年雪舟、『山水長巻』を完成させる
1487年~1505年長享元年~永正2年長享の乱
1487年~1491年長享元年~延徳3年長享・延徳の乱
1488年~1580年長享2年~天正8年加賀一向一揆。断続的に勃発し、織田信長に平定される
1489年延徳元年足利義政、銀閣を完成させる
1493年明応2年明応の政変により細川政権確立
北条早雲(伊勢新九郎宗瑞)が堀越公方を滅ぼす
1498年明応7年明応地震
1510年永正7年三浦*28の乱。朝鮮で日本人の居留民が通交の制限を加えられたことに抗議するため反乱を起こす
1523年大永3年明で細川氏と大内氏が寧波の乱を起こす
1531年享禄4年享禄の乱
1536年天文5年天文法華の乱
1543年天文12年ポルトガル人が大隅国種子島に漂着*29し、鉄砲を伝える
1546年天文15年河越城の戦い。北条氏康と山内上杉家上杉氏・扇谷上杉家・足利古河公方連合軍の合戦
1549年天文18年イエズス会のフランシスコ・ザビエル、マラッカを経由し、逃亡していた日本人・ヤジローを伴って薩摩国鹿児島に上陸し、キリスト教を伝える
1550年以降天文19年以降南蛮貿易の開始
1553年~1564年天文22年~永禄7年川中島の戦い。武田信玄と上杉謙信が5回にわたって争うが、いずれも決着はつかず
1555年弘治元年厳島の戦い。毛利元就が陶晴賢を破る
1560年永禄3年桶狭間の戦い。織田信長が今川義元を破る
1561年永禄4年清州同盟。織田信長と松平元康(徳川家康)の同盟
1564年永禄7年稲葉山城の戦い。織田信長が斎藤竜興を破る。木下藤吉郎の「一夜城」
1565年永禄8年永禄の変。14代将軍・足利義輝が松永久秀と三好三人衆に殺害される
1568年永禄11年織田信長、足利義昭を奉じて入京し、織田政権確立
1570年元亀元年姉川の戦い。織田信長・徳川家康連合軍vs浅井長政・朝倉義景連合軍
1570年元亀元年布部山の戦い。山中鹿之助ら尼子家旧臣vs毛利元就
織田信長と足利義昭の関係が悪化する。足利義昭、近隣大名に信長討伐を命じる書を送付。第一次信長包囲網結成のはしりとなる
金ヶ崎城の戦い。織田信長、朝倉義景軍討伐の為の遠征中、義兄弟の浅井長政に裏切られ、退却する
1571年元亀2年信長、比叡山を焼き討ち。元々比叡山の僧侶の素行が悪く、信長は立ち退き勧告を行ったものの、比叡山の門徒たちがこれに反抗したため、やむなく焼き討ちを実行
1572年元亀3年三方ヶ原の戦い。徳川家康が武田信玄に惨敗する
1573年天正元年武田信玄病没。第一次信長包囲網崩壊の始まり
槇島城の戦い。信長、足利義昭を追放して、室町幕府が実質的に滅亡。義昭は毛利輝元の庇護を受け、一時的に備後・鞆に移住
一乗谷城の戦い。朝倉義景戦死
小谷城の戦い。浅井長政戦死

近世 Edit

安土・桃山時代 Edit

西暦年号出来事
1575年天正3年長篠の戦い。織田信長・徳川家康連合軍vs武田勝頼軍。織田・徳川連合軍の圧勝
1576年天正4年安土城の築城開始
1576年天正4年天王寺の戦い
1578年~1579年天正6年~天正7年御館の乱。上杉謙信亡き後の上杉家のお家騒動。謙信には実子がいなかったことと、謙信が跡継ぎを指名せずに亡くなったことにより、甥の景勝と北条家出身の養子が争い、景勝が勝利
1579年天正7年安土城落成
徳川家康嫡男・松平信康と正室・築山殿が武田家内通の疑惑により自害
1582年天正10年甲州征伐。武田勝頼戦死。武田家滅亡
織田家臣・明智光秀が本能寺の変を起こす。織田信長自害。長男・信忠も明智軍と奮戦を繰り広げるが衆寡敵せず戦死
徳川家康の伊賀越え
山崎の戦い。羽柴秀吉は交戦中の毛利輝元と講和を結び、「中国大返し」を実行。明智光秀を破る
清須会議。会議は明智光秀を破った羽柴秀吉に有利に進み、織田家の跡継ぎは信忠の遺児・三法師に決定するが、幼少の為、信雄が後見人に就任
天正壬午の乱。徳川家康vs北条氏政。羽柴秀吉と織田信雄の勧告で両者は和解
1582年~1590年天正10年~天正18年天正遣欧使節(伊東マンショ・原マルチノ・中浦ジュリアン・千々和ミゲル)がローマに渡航
1582年~1598年天正10年~慶長3年太閤検地
1583年天正11年賤ケ岳の戦い。羽柴秀吉vs柴田勝家・織田信孝。秀吉が両者を破り、織田家の実権を握る
大坂城築城開始
1584年天正12年小牧・長久手の戦い。羽柴秀吉vs徳川家康・織田信雄。当初は徳川軍が優勢だったが、信雄が勝手に秀吉と和睦を行ったため、戦闘不能となる
1585年天正13年羽柴秀吉、関白となり政権確立
1586年天正14年羽柴秀吉、太政大臣就任。豊臣姓を賜り、以降「豊臣秀吉」を名乗る
天正地震。M7.8。最大震度は震度7。死者多数
1587年天正15年豊臣秀吉によるバテレン追放令。カトリック教会の宣教師を追放
1588年天正16年足利義昭、朝廷に征夷大将軍の職を返上。名実ともに「室町幕府」消滅
豊臣秀吉による刀狩令
1590年天正18年豊臣秀吉による小田原攻め。北条氏滅亡。秀吉による天下統一成る
1591年天正19年豊臣秀吉、茶人・千利休に切腹を命じる。「わび茶」に対する思想の相違からの対立か?
豊臣秀吉による身分統制令。士農工商の身分体系を確立させ、幕藩体制のはしりとなる
1592年文禄元年豊臣秀吉による人掃令。全国の戸口調査を行う
1592~1593年文禄元年~文禄2年文禄の役(壬申倭乱)。第一次朝鮮出兵。日本の使者・小西行長と明の使者・沈惟敬(ちんしけい)らの協議によって日本・明の間で休戦協定が成立
1596年慶長元年サン=フェリペ号事件
慶長伏見地震により伏見城が大破
1597年~1598年慶長2年~慶長3年慶長の役(丁酉倭乱)。第二次朝鮮出兵。豊臣秀吉の死去で日本側の全軍が帰国して講和を結ばずに終結
1598年慶長3年秀吉、五大老(徳川家康・毛利輝元・上杉景勝・前田利家・宇喜多秀家)・五奉行(浅野長政、石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以)を制度化
豊臣秀吉、伏見城にて死去
1599年慶長4年福島正則・加藤清正・池田輝政・細川忠興・浅野幸長・加藤嘉明・黒田長政ら七将による石田三成襲撃事件。三成は徳川家康の居城・伏見城に逃げ込み、家康は七将を説得して襲撃を中止させる
1600年慶長5年関ヶ原の戦い。石田三成*30ら「西軍」vs徳川家康ら「東軍」。当初は「西軍」が優勢であったが小早川秀秋の寝返りで形勢逆転し、「東軍」の勝利となる
イングランド出身の商人のウィリアム・アダムズやオランダ出身の商人のヤン・ヨーステンが日本に上陸し、徳川家に仕える

江戸時代(幕末以前) Edit

前期 Edit

西暦年号出来事
1601年慶長6年慶長金・慶長銀鋳造開始
1603年慶長8年徳川家康、伏見城で征夷大将軍の宣下を受け、江戸幕府を開く
二条城の築城、将軍宣下に伴う賀儀が挙行される
徳川家康、李氏朝鮮との国交回復
1605年慶長10年徳川秀忠、伏見城で征夷大将軍の宣下を受ける。家康は駿府城に移住し、「大御所」として君臨
1609年慶長14年島津家久による琉球侵攻。琉球王国が薩摩藩の支配下に置かれるが、明との貿易は続行が許可される
己酉約条
1610年慶長15年徳川家康、京都の商人・田中勝介をノビスパン(メキシコ)に派遣
1613年慶長18年仙台藩主・伊達政宗が藩士・支倉常長を代表として慶長遣欧使節を派遣
方広寺鐘銘事件
1614年慶長19年大坂冬の陣
1615年慶長20年大坂夏の陣。豊臣氏滅ぶ。「元和偃武(げんなえんぶ)*31
元和元年武家諸法度(元和令)、禁中並公家諸法度を定める
1616年元和2年欧船の来航を平戸・長崎に制限
徳川家康、駿府城にて死去
1622年元和8年元和の大殉教
1623年元和9年徳川家光、伏見城で征夷大将軍の宣下を受ける
1624年寛永元年スペイン人の来航を禁じる
1628年寛永5年踏絵制度の開始
1629年寛永6年紫衣事件、僧・沢庵は小豆島に流罪*32。後水尾天皇退位
1633年寛永10年奉書船以外の海外渡航を禁じ、海外渡航者の帰国を制限
1635年寛永12年参勤交代制度の確立
1636年寛永13年浅草・芝・坂本で寛永通寳鋳造開始、三貨体制確立
1637年~1638年寛永14年~寛永15年島原の乱。島原・天草地域の農民が島原藩主・松倉勝家の苛政に耐えかね、キリスト教徒の少年・天草四郎時貞を祀り上げて蜂起
1639年寛永16年ポルトガル人の来航を禁止
1641年寛永18年オランダ人を長崎出島に移住させる
1642年(推定)寛永19年(推定)寛永の大飢饉
1643年寛永20年田畑永代売買禁止令を定める
1651年慶安4年由井正雪の乱(慶安の変)。幕藩体制の転覆を狙った由井正雪が蜂起するも、仲間の密告により計画が漏れ、未実施に終わる。正雪と幹部の丸橋忠弥は斬首
1657年明暦3年明暦の大火。松平信綱と保科正之*33による江戸の復旧活動
1663年寛文3年殉死の禁止・末期養子(まつごようし)の緩和
1665年寛文5年大名の人質を廃止
1666年寛文6年オランダ風説書の初版発行
1669年寛文9年シャクシャインの戦い。アイヌ人酋長・シャクシャインが貿易において暴利をむさぼる和人(シャモ)を攻撃
1670年寛文10年紀州藩の蜜柑船が偶然に小笠原諸島を発見

中期 Edit

西暦年号出来事
1682年天和2年井原西鶴、『好色一代男』を発表
1683年天和3年八百屋お七事件
1684年貞享元年渋川春海、貞享暦を作る。当時使われていた中国元代の宣明暦に誤差が生じていたため
1687年貞享4年将軍・徳川綱吉、生類憐れみの令を定める。江戸時代における最大の悪法とされてきたこともあったが、近年は動物愛護のみならず、捨て子の廃止などの現在の福祉的側面もあったとして再評価の流れがみられる
1690年元禄3年湯島聖堂が設立
1692年元禄5年日本と朝鮮の間で、現在の鬱陵島をめぐる領土問題が発生。いわゆる「竹島一件」と呼ばれる
1695年元禄8年徳川吉宗による元禄の貨幣吹替。元禄金・元禄銀の品位を下げ、通貨量を増大
1697年元禄10年宮崎安貞、『農業全書』を刊行
1701年元禄14年赤穂事件。大石内蔵助ら四十七士、藩主・浅野長矩の敵討ちとして吉良上野介義央の邸宅を襲撃
1703年元禄16年近松門左衛門の『曾根崎心中』、人形浄瑠璃により初演
元禄地震。関東大震災(1923年)と類似のタイプの海溝型地震とされる
1707年宝永4年宝永地震。これに付随して富士山の大噴火(宝永山誕生)。現在の記録上、富士山の最後の噴火とされる
1708年宝永5年イタリア人宣教師・シドッチが来日
1709年宝永6年正徳の治。間部詮房・新井白石を登用
新井白石、シドッチに尋問。シドッチから得た情報を「西洋紀聞」として記録。シドッチ、小石川の切支丹屋敷に軟禁*34
1712年正徳2年勘定吟味役を再び設置
1714年正徳4年江島生島事件。江戸城大奥御年寄の江島(本事件を題材とした小説や講談では「絵島」と表記されることが多い))が若手歌舞伎役者・生島新五郎を相手に遊興に及んだことで、大奥関係者1400人以上が処罰された
1715年正徳5年海舶互市新例
1716年享保元年徳川吉宗(紀州徳川家)、征夷大将軍となる
1717年享保2年吉宗、大岡忠相を江戸南町奉行(通称:町奉行)に登用
1721年享保6年吉宗、目安箱を設置
1722年享保7年吉宗、上米の制を定める
1723年享保8年吉宗、足高の制を定める
1740年元文5年吉宗、儒学者の青木昆陽と本草学者の野呂元丈にオランダ語を学ばせる
1742年寛保2年吉宗、公事方御定書(御定書百箇条)を定める
1753年宝暦3年宝暦治水事件。 幕府が薩摩藩に対し、木曽三川の改修を命ずる。改修工事は成功したが、薩摩藩側に幕政に対する不満からの自殺者を多く出した責任を取る形で家老・平田靱負が自害し、藩主・島津重年(重豪の父)も後を追うように若くして病死という悲劇的な結果に終わる
1754年宝暦4年公事方御定書完成
1758年宝暦8年宝暦事件。日本初の尊王論者弾圧事件。竹内式部と門弟の公卿らによる討幕計画浮上。竹内式部ら弾圧さる
1767年明和4年明和事件。尊王論者・山県大弐ら死罪
田沼意次、側用人に就任
1771年明和8年八重山地震津波
1772年安永元年田沼意次、老中就任
1774年安永3年杉田玄白・前野良沢・中川淳庵ら『解体新書』を刊行
1782年天明2年下総国印旛沼の開墾開始
1783年天明3年浅間山噴火(天明大噴火)
1783年~1788年天明3年~天明8年天明の飢饉。日本近世史における最大の飢饉
1784年天明4年工藤平助ら、蝦夷地開拓を企図
田沼意知(意次の嫡男)、江戸城内において佐野政言に斬りつけられ重傷を負い、8日後に死亡
1785年天明5年手賀沼を開墾する。翌年完成するも、洪水にて流失
1786年天明6年田沼意次、罷免される。翌年、減封され、相良城を収公。田沼の罷免に伴い、印旛沼の開墾や蝦夷地開拓事業が中止となる
1787年天明7年松平定信、老中筆頭となり、倹約令を発する
1788年天明8年京都天明の大火、皇居炎上
1789年寛政元年クナシリ・メナシの戦い。アイヌ人の和人に対する最後の蜂起
棄捐令を定める
「尊号一件」。光格天皇が実父典仁親王に太上天皇の尊号を贈ろうとするも、幕府に拒絶される
1790年寛政2年寛政異学の禁。朱子学以外の学問を禁じる
1791年寛政3年江戸に町会所を建て、七分積金制を創設
「尊号一件」。一条輝良、新たに関白となり、再度幕府に要求
米国商船レディ・ワシントン号が、紀伊大島に来航
仙台藩士・林子平が『海国兵談』を完成させる
1792年寛政4年子平の『海国兵談』による筆禍事件。子平は死罪を免れたが、謹慎を命ぜられる
ロシア使節アダム・ラクスマン、伊勢の漂民大黒屋光太夫を伴い蝦夷地根室に来航、通商を要求するも幕府は拒絶
雲仙岳の火山性地震。それに伴う眉山の山体崩壊。更に津波により島原や対岸の肥後国が被害を受ける
1793年寛政5年「尊号一件」。議奏中山愛親ら、関東へ下向して幕府の審問を受け、免職。「尊号一件」以来、それまで良好であった松平定信と将軍・徳川家斉が対立し、定信失脚の一因となる
1797年寛政9年イギリス船、蝦夷地室蘭に来航
昌平坂学問所(聖堂)を官学校とする
1798年寛政10年国学者・本居宣長、『古事記伝』を完成させる
最上徳内と近藤重蔵が択捉島探検

後期 Edit

西暦年号出来事
1802年享和2年十返舎一九が「東海道中膝栗毛」を出版
1804年文化元年ロシア使節レザノフ、長崎に来航し通商を要求するもこれを拒否される
1805年文化2年関東取締出役設置
1807年文化4年箱館奉行を廃止し、松前奉行を設置
1808年文化5年江戸湾(東京湾)沿岸の砲台修築を起工
間宮林蔵が樺太を探検し間宮海峡(タタール海峡)を発見
イギリスの軍艦フェートン号が長崎に来航して食料などの補給を強要し、オランダ人を人質に捕り長崎奉行・松平図書頭康英(まつだいらずしょのかみやすひで(やすふさ))を恫喝。日本側に人的・物的被害はなく事件は終息したものの、責任を感じた康秀は自殺
1811年文化8年ロシアの軍艦艦長・ゴローニンが国後島で捕縛される(ゴローニン事件)。ディアナ号副艦長のリコルドは日本にゴローニンの身柄の返還を求めたが、日本側がゴローニンの死を偽装し引き渡しを拒否したため、報復として国後島にて商人・高田屋嘉兵衛を人質にとる
1814年文化11年滝沢(曲亭)馬琴、『南総里見八犬伝』を発表
1821年文政4年伊能忠敬、『大日本沿海輿地全図』を完成させる
1825年文政8年異国船打払令
1828年文政11年オランダ商館付のドイツ人医師のフランツ・シーボルトがスパイ活動の嫌疑がかけられ、その一因となった天文方の役人・高橋景保(たかはしかげやす)*35もこれに連座して逮捕(のちに牢内で病死)
1831年天保2年葛飾北斎が『富嶽三十六景』を発表
1833年天保4年歌川広重が『東海道五十三次』を発表
1833年~1839年天保4年~天保10年天保の大飢饉
1834年天保5年水野忠邦(唐津藩主)が老中に就任
1835年天保6年竹島事件。松井松平家(石見藩)による密貿易事件
1837年天保8年大塩平八郎の乱。元与力による前代未聞の反乱事件である。幕政の腐敗を嘆いた大塩による抗議
生田万(いくたよろず)の乱。国学者・生田万が大塩の乱に触発されて越後柏崎で反乱を起こすも、短期間で鎮圧
モリソン号事件。アメリカ船のモリソン号が漂民を伴い相模国浦賀に入港するも、異国船打払令が適用されて砲撃される。この事件の翌年、蘭学のサロン・尚歯会のメンバーで蘭学者の高野長英は「戊戌夢物語」を、画家の渡辺崋山は「慎機論」を執筆し幕府の対応を批判
1839年天保10年蛮社の獄。高野長英・渡辺崋山ら逮捕。尚歯会のメンバーの一員であった小関三英(こせき(おぜき)さんえい)は連座を恐れて自殺
1842年天保13年天保薪水給与令。異国船打払令を緩和
1844年弘化元年オランダ国王ウィレム2世、将軍・徳川家慶に親書を送り開国を勧告するが、家慶はこれを拒否
1846年弘化3年アメリカ使節・ビッドルが相模国浦賀に来航し通商を要求するが、これも拒否される
1849年~1851年嘉永2年~嘉永4年お由羅騒動。藩主就任をめぐって島津斉彬推薦派とその異母弟・久光の推薦派に分かれて争ったお家騒動。斉彬の藩主就任で決着

近代 Edit

江戸時代(幕末) Edit

西暦年号出来事
1853年嘉永6年マシュー・ペリーがフィルモア大統領の国書を携えて浦賀に来航
ロシアのエフィム・プチャーチンが長崎に来航
1854年嘉永7年/安政元年日米和親条約調印。下田・箱館の開港。
日英和親条約調印。長崎・箱館の開港
安政東海地震
安政南海地震
1855年安政2年安政江戸地震。徳川斉昭の腹心の藤田東湖・戸田忠太夫が圧死
日露和親条約
1856年安政3年アメリカ領事タウンゼント・ハリスが下田に着任
日蘭和親条約
1857年安政3年ハリス襲撃事件(未遂)
1858年安政5年南紀派の井伊直弼、大老就任
日米修好通商条約調印。神奈川・長崎・新潟・兵庫の開港。孝明天皇が激怒し、睦人親王に譲位を表明(堀田正睦のとりなしで撤回)
薩摩藩主・島津斉彬が急死。コレラ説が有力
1858年~1859年安政5年~安政6年安政の大獄。吉田松陰・橋本左内ら死罪。松平春嶽・山内容堂・徳川斉昭・一橋慶喜らは謹慎処分
1859年安政6年ロシア海軍軍人殺害事件
安政の大獄の余波が薩摩にも及び、西郷吉之助(隆盛)が勤皇僧・月照とともに錦江湾で入水(西郷は蘇生したが、月照は死亡。のちに西郷は幕府の捜査の目をごまかすため死亡が偽装され、奄美大島に流される)
1860年安政7年/万延元年桜田門外の変
日本人通訳・小林伝吉が殺害される
幕府が咸臨丸で万延元年遣米使節を派遣。勝海舟・福沢諭吉などが乗船
1861年万延2年/文久元年ロシア軍艦による対馬芋崎の占領事件(ポサドニック号事件)。小栗忠順とビリリョフによる交渉
駐日アメリカ総領事館の通弁官・ヒュースケンが暗殺される
第一次東禅寺事件。水戸藩の過激派浪人による東禅寺逗留中のオールコック(英領事)を襲撃
1862年文久2年徳川家茂、和宮親子内親王と婚姻
坂下門外の変。水戸藩過激派による老中・安藤信正襲撃事件。信正は背中の負傷がもとで失脚
寺田屋事件。島津久光が派遣した鎮撫使と過激派・有馬新七らが乱闘
第二次東禅寺事件
生麦事件。島津久光の行列を横切ったイギリス人・リチャードソンをお供の藩士が斬殺
高杉晋作、伊藤俊輔(博文)、志道聞多(井上馨)らによる英国公使館焼き討ち事件
文久の改革。将軍後見職に一橋慶喜、政事総裁職に松平春嶽が就任
文久の改革。蕃書調所を洋書調所と改める
文久の改革。幕府陸軍の設置や三兵戦術を導入
文久の改革。千歳丸を清に派遣
対馬藩家老・佐須伊織が42名の過激尊攘派により暗殺
江州石部事件。「石部宿の惨劇」。岡田以蔵らにより京都町奉行所の役人が殺害される
1863年文久3年薩英戦争。戦闘は五分五分の引き分けに終わり、これ以降薩摩とイギリスは友好関係に転じる
八月十八日の政変。三条実美らの七卿落ち
生野の変。福岡藩士・平野国臣が挙兵
天誅組の変。土佐藩士・吉村寅太郎が挙兵
井土ヶ谷事件。陸軍少尉アンリ・カミュが浪士数名に殺害される
1864年文久4年/元治元年水戸天狗党の乱。藤田東湖の遺児・藤田小四郎らが挙兵
池田屋事件。新選組による不逞浪士暴発の抑制
禁門の変
四国連合艦隊下関砲撃事件
第一次長州征伐
1866年慶応2年土佐脱藩浪士の坂本龍馬・中岡慎太郎の斡旋により薩長同盟締結
第二次長州征伐
徳川家茂、第二次長州征伐の陣中に急死。死因は脚気とされる
徳川慶喜、征夷大将軍に就任
1867年慶応3年孝明天皇崩御。睦仁親王践祚
アーネスト・サトウ襲撃事件。徳川慶喜に面会後、停泊中の宿に襲撃を受けるが護衛の武士がこれを撃退
徳川慶喜による大政奉還の宣言
坂本龍馬・中岡慎太郎が近江屋にて暗殺される
油小路の変。この事件に先立ち、首魁の伊藤甲子太郎が殺害されたことで御陵衛士が決起し、新選組と争うが壊滅
小御所会議。徳川慶喜に辞官納地を命じる「王政復古の大号令」が発令
1868年慶応4年/明治元年神戸事件。備前藩の兵士が隊列を横切ったフランス人水兵を銃撃
五箇条の御誓文。由利公正起案、福岡孝弟修正による
五榜の掲示。徳川幕府の禁令をそのまま継承
神仏分離令
府藩県三治制
「明治」に改元
1868年~1869年慶応4年/明治元年~明治2年戊辰戦争
慶応4年1月鳥羽・伏見の戦い。徳川慶喜、大阪まで逃走
慶応4年3月甲州勝沼の戦い。近藤勇斬首
ハリー・パークス襲撃事件
慶応4年閏3月西郷吉之助と勝海舟による江戸城無血開城会談
慶応4年閏4月会津戦争。白虎隊。婦女隊の悲劇。
慶応4年5月北越戦争
慶応4年5月上野戦争。天野八郎らの激しい抵抗
慶応4年7月秋田戦争
明治元年10月箱館戦争。榎本武明らの降伏をもって戊辰戦争終結。

明治時代 Edit

西暦年号出来事
1869年明治2年東京奠都*36
版籍奉還
蝦夷から北海道に改称
太政官制発足(二官六省)。太政大臣に三条実美が就任
浦上二番崩れ。最後のキリスト教徒弾圧事件
大村益次郎、守旧派の襲撃を受けて2か月後に死去*37
1870年明治3年大教宣布。神道を国教として正式に定めた
1871年明治4年廃藩置県
日清修好条規締結
岩倉具視、伊藤博文、山口尚芳、大久保利通、木戸孝允ら「岩倉使節団」の派遣
郵便制度施行

大正時代 Edit

西暦年号出来事

昭和時代(戦前) Edit

西暦年号出来事

現代 Edit

昭和時代(戦後) Edit

西暦年号出来事

平成時代 Edit

西暦年号出来事

令和時代 Edit

西暦年号出来事

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*1 のちの伊都国。現在の福岡県糸島市近辺に相当するとされる
*2 中国の記録に登場する最初の日本人
*3 壱与(いよ)とも。卑弥呼の宗女、いわゆる血縁者。彼女に関する記録はこの西晋への朝貢のみである
*4 応神天皇、仁徳天皇、履中天皇の説あり
*5 反正天皇か
*6 允恭天皇か
*7 安康天皇か
*8 雄略天皇説でほぼ確定
*9 伽耶地域の割譲の際、大伴金村が百済側の使者から賄賂を受け取ったという疑惑が生じた
*10 「隋書」には多利思北孤(タリシヒコ)という人物が初の遣隋使として記載されているが、この「多利思北孤」は蘇我馬子説や厩戸王説があり判然としていない
*11 この時の国書の「日出処天子」という文面が皇帝・煬帝を怒らせることとなったが、当時の隋は外患を多く抱えており、倭が高句麗と同盟を結んで戦争を勃発させることを恐れたので、倭の非礼を許し、答使として裴世清を派遣した。立場上、裴世清は小野妹子より低位であったので、煬帝なりのヤマト政権への意趣返しである
*12 「日本」の国号を示す文字は、推古朝の木簡にもみられる
*13 実施は757年(天平宝字元年)から
*14 一説に738年
*15 本人は事件の前にすでに病死している
*16 この頃の「武士」は、現在で言うところの警備員に近い職である
*17 この頃の唐は安史の乱や近隣勢力の台頭により弱体化し、治安も悪化していた
*18 瀬戸内海で海賊行為を行っていた
*19 現在、高等学校の指導要領では院政の開始を中世の開始とする向きが強い
*20 義朝は家臣の邸宅に逃げ込んだところを、恩賞に目がくらんだ家臣にだまし討ちにされて殺害される。頼朝は流罪、義朝の側室・常盤御前は清盛の妾となり、今若(阿野全成)、乙若(義円)、牛若(義経)は長じてのちは寺に預けるという条件のもと助命
*21 頼朝の異母弟。幼名は今若。義経(牛若)や義円(乙若)は同母弟
*22 南宋からの渡来僧
*23 義時の後妻・伊賀の方が実子・政村を擁立し、義時の長男・泰時の家督継承を不服としてクーデターを起こした事件
*24 頼朝と親しかった公卿で『玉葉』の作者・九条兼実の曾孫
*25 北条泰時の異母弟・朝時を祖とする。朝時が祖父・時政の邸宅・名越邸を引き継いだことに由来
*26 南朝の正当性を示す歴史書
*27 独裁的な政治を行い、「万人恐怖」とあだ名された
*28 釜山浦(ふざんほ)(現釜山)・乃而浦(ないじほ)(現昌原市)・塩浦(えんぽ)(現蔚山広域市)
*29 船が遭難し漂流しているところを、ちょうど日本に向かっていた中国人倭寇・王直の船に拾われる
*30 実質的な総大将は毛利輝元
*31 応仁の乱以来の戦闘が終結
*32 のちに許されて帰参し、徳川家光の侍講となる
*33 将軍・徳川家綱の叔父で前将軍・家光の異母弟
*34 1714年に世話係の長助・はる夫妻から「シドッチに教化された」という密告のもと屋敷内の地下牢に幽閉され、そこで衰弱死
*35 伊能忠敬の弟子で、シーボルトに『大日本沿海輿地全図』を紹介
*36 正式に東京を「ミヤコ」として定めた
*37 傷自体は治療が早ければ助かる見込みは十分にあったのだが、治療のためには詔勅が必要であり、その詔勅が下りるのが大幅に遅れ、詔勅が下りた時にはほぼ手遅れなまでに悪化していた

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