徳川家康とは、戦国時代から江戸時代初期の三河国の大名、江戸幕府初代将軍である。
1543年、三河岡崎城城主・松平広忠とその妻・於大の長男として生まれる。幼名は竹千代といった。 3歳(以下、数え年)の1544年、於大の兄で家康から見て母方の叔父にあたる水野信元(?~1578)が今川氏を離反して織田家に臣従したため、広忠は今川氏との関係を配慮し、於大と離縁した。これにより、竹千代は母親と生き別れになってしまった。 6歳の時に今川家に人質に出されるも、家臣の戸田康光の裏切りで尾張の織田信秀に引き渡されて人質となった。この頃、幼き日の信長に会っており、親交があったという。 2年後には父・広忠が殺害され、ほどなくして今川家が安祥城を攻め、ここで今川家が人質に取っていた織田信広(信長の兄)と人質交換が行われ、竹千代は身柄を今川家に引き渡された。時の当主・今川義元は人質であるにもかかわらず竹千代を手厚く保護し、自身の名の「元」の字を与えており、竹千代は、16歳の時に元服してからは「松平元信」(ほどなくして元康に改名)と名乗った。さらに、今川家臣の関口氏の娘・瀬名と結婚し、信康と亀姫の2子を設けている。しかし、人質であるという身分は動かしがたく、今川家に従属する松平家臣団は堪え難きを耐え、忍び難きを忍ぶという生活を余儀なくされていた。 元康が18歳の時、元康の運命を大きく変える出来事が起こる。桶狭間合戦で、当主の今川義元が戦死したのである。元康は今川方の先鋒として出陣していたが、義元戦死の知らせが届くや否や、急いで岡崎城に帰還した。その後、今川家は嫡男の氏真が継ぐこととなったが、義元亡き後の今川家は力を失っていたのであった。元康は水野信元の説得を受け、1562年、織田信長と同盟を組んだ。清州同盟である。信長との同盟の直後、元康は名を「松平家康」と改めた。
信長との同盟の翌年、三河一向一揆が発生し、一向宗徒の家臣の大半に背かれることとなる。しかし、一揆発生から半年ほどで一揆側との和議を結び、離反した本多正信や夏目広次などの家臣たちには投降したうえで、改宗する事を条件に帰参を許した。夏目広次はすぐに起算したものの、本多正信はしばし流浪の旅をつづけ、姉川合戦ごろにはひょっこり戻ってきたといわれる(本能寺の変後の説あり)。 その後は東三河豪族たちを臣従させ、買いの武田信玄と同盟を結び、1568年には今川氏真に降伏を促し、遠江を平定する。その後、三河守への叙任を勅許により成功させ、「徳川家康」を名乗るようになった。 やがて、遠江平定後は浜松城に本拠を移す。その後は織田の同盟軍として姉川の戦いに参戦。寡兵ながらも猛将・榊原康政や本多忠勝らの働きによりこれを打ち破った。 織田・武田間の軍事同盟の崩壊に伴い、次第に武田家との関係も悪くなっていった。1573年、三方ヶ原の戦いが発生する。当時、徳川家にとって遠江は心臓にあたる部分だった。そこを武田軍に襲撃されれば、徳川家はひとたまりもなく、また同盟相手の信長にも包囲網が形成され、危険な状態であった。しかし信玄は、浜松城を素通りして進軍していた。この武田軍の行動に嘗められたと感じた徳川軍は勇猛にも武田軍に突っ込んでいったが、これは信玄の罠で、徳川軍はその罠にまんまと引っかかったのである。 案の定、家康は当時最強の武田軍に惨敗し、織田軍からの援軍など多くの犠牲を払いながらも命からがら本拠地に戻っている。この際、本多忠勝の叔父の忠実や夏目広次などの古株の家臣を失っている。 家康は武田軍のさらなる出撃に供えていたが、武田軍が襲撃してくることはなかった。むしろ撤退を急いでいる様子であった。この三方ヶ原の戦いののち、信玄は病により、すでにこの世の人ではなかったのである。武田家の次の当主は、勝頼が受け継いだ。 1575年の長篠・設楽原の合戦では織田軍と連携して武田勝頼の騎馬軍団を打ち破る。これにより、家康は武田軍に敗北するという汚名を返上したのだった。 1579年、嫡男・信康と正室・瀬名(築山殿)に武田勝頼と内通しているという疑惑がかかった。家康は信長の命令により、泣く泣く両名の処分を余儀なくされた。家康は、両名の処分を生涯後悔していたという。しかし、現在は信長は家康に両名の殺害を命じたわけではなく、「俺はこの件について何も言わんから、お前の思うとおりにしろ」と発言しており、両名にしても実際に武田家に内通していたという説や、家康と信康の親子関係が悪化していたのが殺害に至った原因であるという説が主流になりつつある。 やがて、1582年春、信長は勝頼を天目山で打ち滅ぼす。ここに、武田家は滅亡した。最大の脅威がなくなったことでつかの間の平穏が織田家・徳川家に訪れ、信長にすすめられて家康は堺の観光旅行を楽しんでいた。そこに、家康を仰天させる知らせが届く。 京都本能寺で、信長が家臣の明智光秀の寝返りにあい、横死したのである。