勝海舟 のバックアップ(No.2)

勝海舟は、江戸末期の幕臣である。尊王攘夷派の志士に開国と統一政権樹立の必要性を説き、江戸幕府瓦解の始末を行った。
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画像出典:https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Kaishu_Katsu_1.jpg


生没年:1823~1899(文政六~明治三十二)
出身地:江戸

幼年期 Edit

 旗本・勝小吉の長男として江戸本所に生まれた。幼名は麟太郎。父親は幕臣の中でも身分が低く、おまけに放蕩者であったため生活は困窮を極めていたが、義侠心に富み、自身より立場が上の人物にも歯に衣着せぬ物言いをする性格から、市井の多くの人に慕われたという。
麟太郎少年は従兄弟で剣豪の男谷信友(おだにのぶとも)に剣術を習い、のちに男谷の一番弟子の島田虎之助にも学んだ。麟太郎少年は熱心な稽古ぶりを島田に認められ、免許皆伝の腕前となった。
 しかし、9歳の時に道場から帰る途中、野犬に睾丸を噛まれるという事故に遭っている。一時は生死をさまようが、父・小吉の賢明な看病や水垢離により回復し、一命をとりとめた。

青年期 Edit

 剣の師の島田は、蘭学者の伊東玄朴と親交があった縁で、「剣術だけでは列強からわが国を守ることはできない。まずは西洋の学問を学び、そこから兵術と呼べるものを広く学びなさい」と麟太郎青年に西洋式兵術の収得を勧めた。当初、麟太郎青年は蘭学の大家とされた箕作元甫(みつくりげんぽ)に弟子入りを志願するが、「私が蘭学を教える目的は西洋の医術であって、君が学びたいような人殺しの兵術ではないから他をあたってくれ。そして二度とうちに来ないでくれ」とにべもなく断られてしまう。次に、元甫の弟子であった永井青涯に弟子入りを志願したところ受け入れられ、永井のもとで蘭学を学んだ。オランダ語の辞書「ズーフ・ハルマ」を独力で2部筆写し、1部を販売して蘭学の勉強のための資金に充ててもいる。
 嘉永3(1850)年、江戸赤坂に蘭学の私塾を開いた。この頃、逃亡中の高野長英と面識がある。「氷川清話」に高野長英についての記述があるのは、この出来事による。蘭学を享受する傍ら、諸藩の求めに応じて自身の蘭学の知識をフル活用して大砲の製造を試みた。そのころ、砲術を教えていた佐久間象山に出会い、佐久間に教えを乞うこととなった。やがて、佐久間の自邸に頻繁に出入りするようになった勝は、佐久間の書いた「海舟書屋」の額を気に入り、「海舟」と名乗るようになった。また、勝はのちに妹を佐久間のもとへ嫁がせており、義兄弟の関係ともなっている*1
 嘉永6年(1853年)、浦賀沖にペリーが来航すると、老中の阿部正弘が意見を公募した。この時、勝は海軍の必要性や、その資金作りのために欧米諸国と外交を行い、それによって若い人材を育成するべきであることを説く内容の意見書を提出した。
当時、「外国船が確認されたら有無を言わさず砲撃せよ」といった意見が多い中ではるかに優れた意見であった。この意見書の内容を拝読し、勝に才能を見出したのが勝と同じ開明的な思想を持つ幕臣・大久保一翁である。大久保とその同僚の岩瀬忠震(いわせただなり)の引き立てで、勝は幕臣となった。
 安政2年(1855年)、幕府はオランダ人から公開技術を学ぶ計画を立て、その監督に永井尚志(ながいなおむね)を任命し、勝らを長崎に送る。これが長崎海軍伝習所のはしりとなり、諸藩の藩士もこれに参加した。勝は伝習所のリーダーとして航海技術の収得に努め、このさなか薩摩藩に立ち寄って藩主の島津斉彬に面会している。
 安政6年(1859年)の1月、勝は江戸に帰還し、講武所内に新設の軍艦教授所の教授型頭取に任命された。しかし、大老・井伊直弼の「安政の大獄」により大久保と岩瀬*2が幕政から外され、両名に謹慎命令が下されたことで勝は後ろ盾を失うこととなった。

渡米 Edit

 安政7年(1860年)、幕府は日米通商条約の批准のために施設をアメリカに派遣したが、これに勝も同行することとなった。勝は妻子に「ちょいと品川まで行ってくらぁ」と言い残して咸臨丸に乗船し、太平洋に乗り出した。勝は艦長として乗船したが、指導は提督の木村芥舟や米国人・ブルックらの船員が行った。この措置にプライドをいたく傷つけられ、またひどい船酔いを患っていた勝は航海中は何もできず、到着するまで自室にこもっていたという。
ともあれ、咸臨丸は無事米国に到着し、西洋の文物に触れて勝は開国思想を強めていった。同行した人物に福沢諭吉や中浜万次郎がおり、福沢とは前述の一件から仲が悪かったという。
 アメリカから帰国した勝は、自身の能力や米国で得た知識を十分に生かせる職務を与えられなかった。後ろ盾になってくれる先輩格の幕臣がいなかったことも原因の一つだが、父親譲りの、目上の人物にも歯に衣着せぬ物言いをする性格が嫌われたためでもあった。老中からアメリカの視察の結果を聞かれた際、よせばいいのに「我が国とは違い、メリケンでは才能のある人物が政権を担当しております」と皮肉を言ったのであった。結局彼は講武所で教鞭をとりつつ、その機会を待つほかなかった。

幕末の動乱へ Edit

江戸城無血開城 Edit

維新後の勝 Edit

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*1 勝より年上の佐久間が勝の義弟となるという少し奇妙な関係だが
*2 謹慎から数か月後に急死。持病が悪化したと言われているが、井伊への恨みによる自殺説も当時からささやかれた

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