一休宗純は、室町時代後期の臨済宗の僧侶である。 〈生没年〉明徳5年1月1日(1394年2月1日) - 文明13年11月21日(1481年12月12日) 〈出身地〉京都
1394年、京都に生を受ける。父親は後小松天皇で、母・伊予の局は藤原家出身であったとされる。 しかし伊予の局が後小松天皇の寵愛を受けていることを好ましく思わない者がおり、伊予の局は侍女と共に宮中を追放され、貧しい暮らしを余儀なくされる中で子を産んだという。 この子は千菊丸と名付けられ、数え6歳で出家し、京都安国寺に入り、周建と名乗る。漢詩の才能があり、13歳の時に作った漢詩『長門春草』、15歳の時に作った漢詩『春衣宿花』は高い評価を得たという。 1410年、17歳で謙翁宗為の弟子となり、名も宗純と改めた。弟子入りから4年後、謙翁が病死する。敬愛する師の死に宗純は絶望し、琵琶湖に身を投げたが、母に仕える使用人が宗純の身柄を介抱した。これによって母の愛を感じた宗純は心機一転し、都の大徳寺の高僧、華叟宗曇の弟子となる。このとき宗純は弟子入りをなかなか認めてもらえず、数日間外に放置され、とある雪の降りしきる夜、雪に覆われてもなおその場を動かない宗純の覚悟を感じ取った華叟宗曇は弟子入りを認める。 ある日、華叟が出した「洞山三頓の棒」という公案に対し、「有漏路より無漏路へ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と宗純が答えたところ、華叟は宗純に「一休」と名乗るよう命じた。 1420年、一休は悟りを開くことができずに煩悶するが、ある夜にカラスの鳴き声を聞いて悟りを開く。華叟は悟りを開いた一休に悟りの証明書となる「印可状」を与えようとしたが、一休は権威が嫌いなので、これを辞退する。その態度に華叟は感心したという。これ以降、一休は漢詩や書画、狂歌の作成することで人生を送ることになる。 1470年、摂津国住吉大社神宮寺の新羅寺本堂・薬師堂で森侍者という若い盲目の女性と出会う。その四年後には後土御門天皇の勅命により大徳寺の住持に命ぜられる。一休は権威を嫌う性格であったため、その寺に住むことはなかったが、再建に尽力した。酬恩庵という庵を建設し、そこで質素ながらも最愛の女性と満ち足りた晩年を過ごした。 1481年、一休はマラリアで死亡した。享年数え88歳。最期の言葉は「死にたくない」だったと伝わる。
一休を一言で語るなら、「風狂」という言葉がしっくりくるであろう。この「風狂」とは、本来は仏教の戒律から外れた行為、いわゆる「破戒」として批判されるものが悟りの新境地として評価されたものをいう。一休は、この破戒行為を躊躇なく行い、さまざまな奇行には知っていたという。例えば、 ●正月に杖の頭にドクロを設え、「ご用心、ご用心」と叫びながら練り歩く。 ●肉食は当たり前 ●森侍者と肉体関係を持ち、性行為の様子を克明に日記に書きだす。 ●岐翁紹禎という弟子がおり、これが一休の実の子供であると伝わる。 ●友人の蓮如の家に留守中に上がり込んで、阿弥陀如来仏を枕にして昼寝する。もっとも、蓮如がその様子を見つけた時、「俺の商売道具に何をする」と言って二人は笑いあっていたとか。 ●腰に朱色の莢に収めた木刀をさし、街を歩いていた。 ただし、これは一休が精神異常者であったということではない。一休は、このころの仏教の在り方を批判していた。本来の仏教の在り方は貧しい民衆を救済するということであったが、将軍家や武家からの給付金を当てにして、真に救済すべき対象を見捨てていたのである。一休は仏教の教えの風化や伝統の忘却に対して警鐘を鳴らしていたのである。応仁の乱の際、無政府状態となった京の市街地で親友の蓮如と共におかゆの炊き出しを行い、苦しむ民衆の飢えをしのいだという。 なお、女性と関係を持つことを「女犯」といい、仏教ではご法度とされるが、浄土真宗の開祖・親鸞も妻子持ちで、肉食も常々行っていたという。 こうした奇行に走った逸話にだんだんと尾ひれがついて、江戸時代に『一休咄』として頓智話の話集が作り出され、子供向けの昔話の絵本やテレビアニメ「一休さん」へとつながっていったのである。