幕末 のバックアップ(No.19)

幕末とは、日本の歴史において幕府の政権の末期を指す用語である。普通、19世紀中盤の日本の情勢を指して呼称する。ここでは、1841年から1877年にかけての社会変革について解説する。

歴史上の流れ Edit

序盤戦 Edit

天保12年(1841年)、江戸幕府は老中に水野忠邦を就任させ、忠邦は「天保の改革」を行った。
しかし、この改革は庶民のみならず、幕臣や将軍にまで生活に細かな厳しい制限を課すもので、幕臣や果ては将軍・徳川家慶から「お前さ、いちいちうるさいよ?」と不評を買い、結果として忠邦は失脚し、財政を悪化させることとなった。そうした中、薩摩藩や長州藩など、いわゆる有力藩主の「雄藩」は財政を復興させていった。

さらに、18世紀初頭から日本近海にイギリス・フランス・ロシアなどの軍艦や商船・捕鯨船が出没し、開国を求めた。
幕府は「東照大権現(徳川家康)のご遺志に逆らうわけにはいかない」*1とこれらの国との通商に消極的で、天保14年(1844年)にはオランダ国王・ウィレム2世が開国の勧告を書簡に表して幕府に送付し、その2年後にはアメリカ海軍士官・ビッドルが浦賀に来航して幕府に通商を要求したが、幕府はこれらの勧告を黙殺した。

そうして、嘉永6年6月(1853年7月)、マシュー・ペリー率いるアメリカの艦隊(黒船)が相模の浦賀に来航する。黒船来航は事前にオランダが警告していたのだが、幕府はしかるべき外交的対策をとっていなかった。この事態に家慶はショックを受け、そのままぶっ倒れてしまう。

幕府は返事を翌年まで待ってもらい、アメリカ側も幕府の要求を渋々ながらも受け入れたのであった。もともと脚気により病臥していたのだが、精神的なショックが一気に体に来たせいであろう、家慶はそのままポックリ逝ってしまい、その後釜には家慶の唯一の息子・家定が将軍に就任するが、この新将軍は幼いころから病弱で、言葉が不自由であった。また、気に入らないことがあると泣きわめいて拗ねてしまい自室に引きこもることもあったため、将来を不安視されていた。一説には、これらの症状は小児まひの後遺症ではなかったかとされている。

そうして、翌年にペリーが来航したさいには、老中・阿部正弘は函館・下田を開港し、1825年に制定された異国船打払令*2を撤廃し、外国船が日本に不時着した場合は、食糧等の必要な物資を提供するという方針に切り替えた。これが世にいう「日米和親条約」である。
幕府は、イギリスやフランス、ロシアやオランダとも同等の条約を結んだ。ここに、鎖国体制は崩壊した。

この条約を結ぶ際、阿部は欧米諸国との全面戦争を見越して、日本全国各地の様々な藩に意見を求めたが、ほとんどが机上の空論にすぎないものか、どうにも歯切れの悪い意見ばかりであった。なかには、日本の国力を見据えた先進的な藩もあったが、幕府は「外様が何をいうか」と言わんばかりにその案をすぐに却下していたのだった。
前述した「雄藩」のほとんどは外様大名であったが、儒学がイデオロギーと化しており、幕藩体制が発足してからこのかた、親藩や譜代の、将軍家に媚び売りまくった意見ばかりを採用し、外様の事態をよく見据えた冷静な意見のほとんどを採用してこなかったことで、非常事態に対応できなかった。
幕府の秩序を維持するために重視した儒学により幕府の寿命を縮めることになったのだから、何ともまあ皮肉な話である。幕府は藩のみならず、民間にも意見を求めたのだが、幕政や外交の知識を持たない彼らからの意見は、どれも実用に欠けるものであった。

しかし、この幕府の「弱腰外交」に対する姿勢が露呈すると、多くの者が幕府の政務に対して失望し、幕府よりも位が格段に高い朝廷の権威をもって外国勢力に対抗し、国を守ろうとする「尊王攘夷論」が発生した。また、佐幕派のなかには、朝廷と結ぶことで幕藩体制のやり直しを図る「公武合体派」も表れた。

安政5年6月(1858年7月)、大老・井伊直弼は日米修好通商条約を締結した。このとき、下田・函館に加えて長崎・新潟・兵庫・神奈川が開港された。
この条約は、我が国にとって不平等な要項が盛り込まれていた。代表的なものを2つ紹介する。

まず一つ目が、アメリカ側に領事裁判権が存在することである。これは、アメリカ人が日本で犯罪を犯した場合、日本の法律ではなくアメリカの法律で裁かれるということである。
つまり、アメリカ側が判決を不当に軽くすることができたのである。

次に二つ目は、関税自主権が日本に存在しないことである。つまり、商品を外国に輸出する際、日本は関税をその品物にかけることができないのである。これは、当時の日本の経済、特に養蚕業に大打撃を与えることとなった。
急な物価上昇は民衆の生活をも圧迫し、打ちこわしが多数発生した。

こうした不平等な条約に対して、孝明天皇は激怒し、「朕は睦仁に譲位する」とまで言い出した。内容もさることながら、井伊が条約を締結する際、天皇の勅許を得なかったためである。

焦った井伊は老中の堀田正睦を派遣し、領事のタウンゼント・ハリスと条約を締結させ、その後で勅許を得ようとしたが、失敗した。この一連の事件は、尊皇攘夷派の怒りを買った。

折しも、13代将軍の徳川家定が若くして病死した。彼には実子がいなかったので、一橋慶喜と徳川慶福(よしとみ)が将軍候補として推挙され、両者の派閥が対立した。井伊は慶福を推薦しており、一橋派であった越前藩主の松平春嶽や、宇和島藩主の伊達宗城、さらに水戸藩主徳川斉昭・慶喜父子まで隠居や蟄居に追い込み、これと時期を同じくして幕府の政治体制に異を唱えた吉田松陰(長州)や梅田雲浜(小浜)、橋本左内(福井)らを投獄、のちに斬首した*3
さらに、逮捕や謹慎の対象は幕臣などの武士階級のみならず、自身の政敵となった公卿(三条実万(さねつむ)*4や鷹司雅通など)にまで及んだ。これが「安政の大獄」である。なお、薩摩藩主の島津斉彬は慶喜を将軍に推薦する立場をとっていたが、井伊の弾圧が始まる前に急死しており(毒殺説アリ)、また江戸からかなり離れているため処罰の対象とはならなかった。また、梅田雲浜ら尊攘派と親交が深かった勤王詩人・梁川星厳(やながわせいがん)も操作並びに逮捕の対象となっていたが、逮捕される前に自宅でコレラにより死亡した*5ことで、「安政の大獄」の対象とはならなかった。こうして、井伊の専横のもと、慶福は名を家茂と改めて将軍に就任した。

万延元年(1860年)3月、かつての同志を井伊の安政の大獄によって殺害され、怒りに燃えた関鉄之介ら水戸藩士12名と薩摩藩士・有村次左衛門が登城途中の井伊を襲撃し、殺害した。桜田門外の変である。幕府は権威失墜を防止するため、殺害犯の逮捕に急ぐ傍ら、井伊の首と胴体を縫合して、井伊の死を「病死」と偽装したが、現場では雪の降りしきるなか鮮血が飛び散っていたため、大老が凶刃に斃れたというニュースは瞬く間に全国に広まった。

なお、井伊を襲撃した13人のうち、ほとんどが逮捕の上斬首されたか逃げる途中に観念して切腹し、わずかに2人が明治まで生存している。

中盤戦 Edit

老中の安藤信正(磐城(たいら)藩主)は、公武合体政策推進の一環として、孝明天皇の妹・和宮親子内親王を許嫁の有栖川宮熾仁親王と別れさせ、将軍・徳川家茂に嫁がせる計画を練っていた。これが尊王攘夷派に知られてしまい、過激派に襲撃された信正は、背中に負傷したものの、命に別状はなかった。しかし、背中に負傷したことが「士道不覚悟」*6とされ、失脚を余儀なくされた。これが坂下門外の変の顛末である。
婚礼は後に滞りなく行われ、和宮と家茂の結婚期間は家茂の夭折により短いものとなってしまったが、仲睦まじい夫婦であったという。なお、過激派を先導した首魁の大橋訥庵(とつあん)は逮捕されたのち、獄中で没した。死因は牢内の劣悪な環境による病死とも、看守による毒殺とも伝わる。

1862年、勅使・大原重徳の協力を得て「文久の改革」に着手していた島津久光は、公武合体策推進のため、上洛する手はずを整えた。これを倒幕運動の好機ととらえた薩摩藩の過激な攘夷派・有馬新七らが討幕のため挙兵を企て、この知らせが久光の耳に入る。これを快く思わなかった久光は、大山格之介(綱良)をして過激派を京都寺田屋にて鎮撫せしめた。当初、鎮撫使は有馬たちの命を奪うつもりはなく、あくまでも彼らを説得して投降させるつもりであったが、過激派は頑として説得に応じず、やむなく乱闘となった。結果として有馬らは寺田屋で壮絶な最期を遂げ*7多くの薩摩藩出身の過激派が京から追放された(寺田屋事件)。
この中には、後に海軍大将となる西郷従道(隆盛の弟)や、自由民権運動を弾圧した三島通庸など、のちに明治政府の高官となる面々が多くいた。
ここに、久光の公武合体策推進の障害物は排除された。

同年9月には、横浜の生麦村にて久光の行列を横切ったイギリス人・リチャードソンが、お供の有村俊斎(のちの海江田信義)・奈良原喜左衛門(この事件の直後、突然死亡。藩命による自害とも、病死ともいわれる)に斬殺された。生麦事件である。両国は交渉を行ったが、イギリスの希望した賠償金を薩摩藩が支払い拒否したため、「よろしい、ならば戦争だ」とばかりに薩英戦争という最悪の事態にまで発展してしまった。
戦闘は引き分けに終わったものの、薩摩藩側に甚大な被害を出したこの戦争は、薩摩藩に攘夷の無力さを知らしめることとなった。

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画像出典:(上)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%9F%E9%BA%A6%E4%BA%8B%E4%BB%B6 生麦事件を描いた錦絵。明治時代に作成された。(下)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%A9%E8%8B%B1%E6%88%A6%E4%BA%89 イギリス艦隊と薩摩砲台の戦闘を描いた図。

これと時を同じくして、長州藩が関門海峡を通る外国船を攻撃する。朝廷内では内紛が生じ、会津と薩摩は朝廷から「過激思想」とされた尊皇攘夷思想の持ち主の公卿、例えば三条実美や壬生元修(みぶもとおさ)など7人を追放した(七卿落ち)。
その一方で、イギリスのロスチャイルド系ユダヤ財閥の一つジャーディン・マセソン商会の長崎代理店グラバー商会を営み、日本と主に生糸や茶の輸出を中心に取引を行っていたトーマス・グラバーが、長崎を拠点として佐幕派・倒幕派問わずに近代の武器や弾薬の販売を行うようになる。

桜田門外の変以降、京都では過激な尊王攘夷派により、外国人や幕府の役人が暗殺されるテロや尊王攘夷派の内ゲバが相次いでいた。ハリスの通訳であったヒュースケンは尊王攘夷過激派に斬殺され、駐日総領事のオールコックはイギリス公使館にて攘夷派浪士14名に襲撃されるが、一命を取り留めている(東禅寺事件)。
土佐藩の岡田以蔵*8や薩摩の田中新兵衛*9中村半次郎(桐野利秋)*10、肥後の河上彦斎*11の4人は「幕末4大人斬り」として歴史にその名を知らしめている。

さらに京都では、一連の事件から少し前に清河八郎が各地から浪人を集め「浪士組」を結成する。この目的は、将軍を警護するための集団であるとされており、当時のメンバーには近藤勇や土方歳三、芹沢鴨、山岡鉄舟などがいた。
しかし、清河の真の狙いは、尊王攘夷派として関東に行き、外国人を一人残らず抹殺することであった。清河に騙されていたことに気が付いた芹沢や近藤、土方は京に残留し、会津藩預かりのもと「新選組」を発足させる。なお、清河は尊王攘夷派としての過激な行動を幕府にマークされており、江戸にもどってからひと月あまりのち、かつての同志で幕臣となっていた佐々木只三郎*12に殺害された。

新選組が発足してのち、初代局長は芹沢鴨であったが、局長の権威を濫用して遊郭の代金を踏み倒したり、新選組に対して資金の提供を拒否した庄屋を砲撃したりするなどの粗暴な行動が目立ったため、新選組の評判が落ちることを危惧した会津藩主・松平容保の命を受けた近藤勇に暗殺され、以降は近藤が局長として新選組を率いていく。

元治元年6月(1864年7月)、新選組は会津藩の命を受け、京に潜伏していた吉田稔麿や北添佶磨などの長州・土佐藩士の集合場所であった宿屋の池田屋を襲撃する事件が発生する。池田屋事件である。
これは、池田谷に集まっていた長州・土佐藩士が練っていた「孝明天皇を拉致して京に火を放ち、幕臣を皆殺しにする」という計画を未然に阻止することとなった。

この池田屋事件で同志を失い、巻き返しを図った長州藩と会津・薩摩藩が御所周辺で衝突する。禁門の変である。この時、長州は孝明天皇の身柄を確保し、主導権を握ろうとしたことにより、朝敵とみなされた。

後半戦 Edit

長州はかつて関門海峡にて外国船を砲撃した報復として、英仏蘭米の攻撃を受け、敗北する(下関戦争)。

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画像出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%95%E6%9C%AB 下関戦争を描いた絵画。

ここに長州も、当時最強の兵器を前にした攘夷の無力さを痛感したのである。さらに、幕府は勅命を受け、長州勢を惨敗へと追いやった(第一次長州征伐)。
巻き返しを狙った長州は桂小五郎(木戸孝允)を代表に立て、1865年(慶応元年)、土佐脱藩浪士の坂本竜馬・中岡慎太郎の仲立ちを得て、宿敵であった西郷吉之助(隆盛)を代表とする薩摩藩と軍事同盟を結ぶ(薩長連合)。この軍事同盟は、薩摩のコメ不足と、長州の武器不足を解消するという、ギブアンドテイクの関係であった。
薩長連合の噂を耳にした幕府は、「今度ばかりは許さん」とばかりに長州を完全に叩き潰さんとするために再び長州征伐に乗り出すが、すでに長州と同盟を結んでいた薩摩藩は、幕府の出兵の命に応じず、返事をのらりくらりと先延ばしにするばかりで、薩摩を味方につけさせることを諦めて幕府軍は兵を動かすが、高杉晋作による私兵ゲリラ「奇兵隊」により小倉城を奪われ、さらに大村益次郎の近代的戦法になすすべなく敗れ去る。悪い時に悪いことは重なるもので、将軍家茂が陣中で急な病に倒れ、弱冠21歳で逝去する。こうして、幕府による第二次長州征伐は敗北に終わったのである。
竜馬は、海援隊の前身である亀山社中を結成していた頃からグラバーと親交があり、彼の手引きでグラバー商会と薩長は積極的な貿易を行い、薩長は戦闘に必要な兵器を蓄え、幕府との全面戦争の準備を整えていた。
慶応2年12月(1867年1月)、一橋慶喜が将軍に就任し「徳川慶喜」を名乗る。これとほぼ同じ時期に孝明天皇が崩御した(岩倉具視による暗殺説アリ)。こうして、幕府はシンパであった孝明天皇の崩御により強大な後ろ盾を失うこととなったのである。薩長が睦仁親王(明治天皇)からの「討幕の密勅」*13を得ようとする最中、機を見るに敏な慶喜は慶応3年10月(1867年11月)、天皇に政権を返上する。大政奉還である。これは、慶喜が先手を打つことで、薩長などの討幕派が、幕府を滅亡させる大義名分を消滅させるものであった。

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画像出典: https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%95%E6%9C%AB 「大政奉還」の図。

ここをもって、事実上江戸幕府は終了することとなった。

慶喜は、一旦は政権を皇室に返上したが、腹の中では「皇室に海外事情に通じた者は皆無に等しく、そもそも睦仁親王陛下が幼すぎる。皇室が『政務にもう一度おつきください』と俺に泣きついてくるはずだ。そうしたら、再び俺の天下だ」と勝手に考えていたのである。事実、当時の慶喜が欧米の外交官に宛てた書簡に「外交の手続きは引き続き私が行います」と記している。

大政奉還の一か月後、竜馬と中岡が京都近江屋で新政府の政治方針について語らっていたところ、自らを「十津川郷士」(竜馬と親交が深かったとされる)と名乗る3人の武士たちの襲撃を受ける。竜馬は頭部を斬られて即死し、中岡は体中を斬られて重傷を負い、2日後に死亡した。竜馬を襲った武士は、京都見廻組の佐々木只三郎、今井信郎、渡邊篤であるとされている。佐々木は戊辰戦争で戦死したが、今井や渡辺は明治まで生存しており、いずれも竜馬の暗殺について証言している。

竜馬暗殺のおよそ一か月後に(1868年1月)に薩長は宮中で「王政復古の大号令」を発表させ、慶喜に辞官納地を命じて幕府の廃絶ならびに新政府樹立を宣言した。
これにより、長州藩主毛利敬親・毛利元徳(広封)父子や、有栖川宮熾仁親王・中山忠能(なかやまただやす)*14・三条実美・岩倉具視ら全ての討幕派・尊攘派公卿が復権することとなった。

この措置に、割を食った者が2人いた。まずは公武合体派であった中川宮朝彦親王である。朝彦親王は、京都守護職を務める会津藩主松平容保やかつて会津藩と友好関係にあった薩摩藩と手を結び、急進的な倒幕と攘夷決行を唱える長州派公卿と長州藩を京から排除しようとした経歴があったのだ。これにより朝彦親王は、今回も徳川慶喜に密使を送っていたというかどで官位をはく奪され、広島藩に身柄を預けられた。
次に、土佐前藩主・山内容堂である。容堂は「幼冲の天子様をまつりあげ、徳川幕府から政権をうばい、政をほしいままにするおつもりか」と岩倉具視に抗議したが、岩倉は「恐れ多くも天子様に向かって『幼冲』とはどういうおつもりや!今のお言葉、撤回なされい」とこれを一喝した。容堂はこの剣幕に縮み上がり、しぶしぶ岩倉の案を呑んだ。この会議が紛糾する中、業を煮やした西郷吉之助は様子を見守っていた大久保一蔵(利通)に「短刀一本さえあれば、片がつきもそ」と、容堂暗殺をにおわせる発言をしたという。

慶応4年(1868年)3月、践祚して睦仁親王改め明治天皇は京都御所で「五箇条の御誓文」を宣布した。その誓文には、「広く民意を取り入れ、何度も会議を重ねてから事項を決定する」という新しい政治方針が盛り込まれていた。

そして、当てが外れた慶喜は、大いに怒った!

西郷は「戦をしたくなかとなら、したくなるように差し向ければ良かど」と部下の益満休之助を代表として、あらかじめ手を回していた反幕府派の浪人達に、江戸だけでなく関東一帯で騒動を起こさせて幕府軍を挑発した。これに怒った庄内藩が薩摩藩邸を焼き討ちにした。この知らせが慶喜に届けられると、慶喜は新政府軍との戦争に踏み切った。

菊は芽が出る 葵は枯れる Edit

慶応4年1月(1868年1月)、鳥羽伏見の戦いを機に新政府軍と旧幕府軍との「戊辰戦争」が勃発。当初は兵力の上では幕府側が有利であったが、新政府軍は有栖川宮熾仁親王を東征大総督に、仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍にそれぞれ任じ*15、岩倉具視の発案で「錦の御旗」を掲げる。これは、新政府軍を「官軍」とすることで、旧幕府軍が自動的に「賊軍」となってしまい、戦意を喪失させることとなった。この戦いで新政府軍は旧幕府軍に勝利。そのまま江戸に軍を進めていった。
その頃、相楽総三は西郷吉之助や岩倉具視の支援を得て、赤報隊を結成する。相楽は新政府の許可のもとに幕政に不満を持っていた民衆に「年貢の半減」を約束して民衆の支持を得た。しかし、新政府軍は「年貢の半減など実際には到底不可能で、それは相楽が勝手に触れ回ったことにすぎない」とこれを撤回し、言うに事欠いて相楽に「偽官軍」の汚名を着せて逮捕した後、斬首に処した。この赤報隊にはかつて清水次郎長のライバルであった侠客・黒駒勝蔵(くろこまのかつぞう)も所属し、赤報隊において優れた武功をあげ、政府もその功績を認めており、一時は勝蔵を政府の高官にすることも考えていた。しかし、「赤報隊の存在をなかったことにしたい」「そもそもヤクザ者が政府の役人になっては示しがつかない」という政府の意向で、過去の罪状に遡及して斬首された。
同年4月、慶喜は松平容保や板倉勝静(かつきよ)ら数名の家臣と共に軍艦・開陽丸に乗って江戸へ逃げた。これにより、多くの幕臣が戦意を喪失した。逃げ延びた慶喜は上野の寛永寺に謹慎する。もはやすべてがご破算になった慶喜は、恭順を示す態度に出た。その一環として、主戦論を唱えた小栗上野介を罷免し、大久保一翁を会計総裁、勝海舟を陸軍総裁に任じた。
陸軍総裁の勝海舟は慶喜の助命の嘆願や江戸城の開城のため、指揮官の西郷に面会を求めた。当初西郷はこれを拒絶したが、勝の名代の山岡鉄舟の説得を受け、勝に面会し、勝の提示した条件をすべて承認。こうして、江戸が戦火に巻き込まれることは回避された。
徳川家の存続や慶喜の助命を訴えたのは勝だけではなかった。和宮(旧徳川家茂夫人。青蓮院宮)や天璋院篤姫(徳川家定の妻で、島津家分家の出身。斉彬の養女)なども尽力し、さらには、英国公使のハリー・パークスは戦火の拡大により横浜の居留地の消失を恐れ、西郷に江戸城無血開城を要請したのであった。
そののち、徳川家の旗本や御家人が天野八郎を隊長にまつりあげ、市中の治安維持を目的に「彰義隊」を結成した。しかし、この彰義隊には新政府軍に恨みを持つ若い幕臣が所属しており、新政府軍とのいさかいが絶えなかった。この事態を重く見た新政府は、西郷に代わって江戸に赴任した大村益次郎の指揮の下、5月に寛永寺に篭る彰義隊を攻撃し壊滅させた。隊長の天野八郎は政府軍に逮捕され、苛烈な拷問を受け、明治改元のおよそ2ヶ月後に牢内で病死した。この直後に、榎本武揚は江戸湾の軍艦8隻を率いて北へ逃亡し、大鳥圭介ら陸軍部隊も江戸を離れ、宇都宮城を陥落させるなど新政府軍と関東各地で交戦した。
東北地方および越後の諸藩は「奥羽越列藩同盟」を結成し、新政府軍に抵抗を続けた。しかし、ほとんどが徐々に新政府軍に降伏していったことで内部崩壊し、越後長岡藩では河合継之助がガトリング法を用いて奮戦し、会津藩は白虎隊などの少年兵の集団や、中野竹子率いる婦女隊などを結成して最後まで戦い続けたが、いずれも衆寡敵せず敗れ去った。特に会津藩での戦闘は酸鼻を極めるものであった。陸軍大将の柴五郎は少年時代に会津戦争を経験しており、戦闘中とはいえ、目に余る政府軍の蛮行を目にしているのである。青年期まで、五郎は薩長に恨みを抱き続け、後に西郷や大久保利通が非業の死を遂げた際も「ざまあみろ」という感情を抱いていたという。
同年9月には「明治」と改元し、「江戸」を「東京」に改めて奠都がなされた。
明治2年(1869年)、箱館において旧幕府残党を率いる榎本武揚は大鳥圭介や旧新選組副長・土方歳三、沢太郎左衛門、永井尚志、渋沢成一郎(喜作、渋沢栄一のいとこ)、フランス人指揮官・ジュール=ブリュネなどとともに「蝦夷共和国」を立ち上げ、当初は戦局は有利であったが、5月に度重なる官軍との戦いに敗れ、土方歳三などの戦死をもって降伏し、ここに戊辰戦争は終結した。なお、蝦夷共和国を建国した榎本や大鳥、荒井郁之助などは薩摩藩士・黒田清隆の説得で斬首を免れ、のちに明治政府の役人となっている。

そして明治へ… Edit

ここに、日本は近代国家としてのスタートを切り始めた。
まずは軍備に重きをおき、長州の大村益次郎と山縣有朋は陸軍制度の雛形を作成する。この際大村は「剣術ちゅうものはこれからの近代的戦争で全く役に立たん。銃火器こそが重要な地位を占めるのです」と発言したため、保守派からの恨みを買い、1869年(明治2年)9月に神代直人(こうじろなおと)ら保守派の襲撃を受け、一時は一命を取り留めたものの、傷口から細菌が入って破傷風に罹患し、2ヶ月後に死亡している。

次に中央集権化のため版籍奉還を行うが、国の政治方針と藩体制が大きく解離する状況を改善するため、廃藩置県に踏み切る。
ほとんどの藩はこの廃藩置県を歓迎した。廃藩置県が行われた1871年(明治4年)当時はまだ戊辰戦争の影響が色濃く残り、藩の資金を戦費として費やした結果、藩の運営が限界を迎え、南部藩など倒産した藩もあったのである。

また、当時の藩主はほとんどが江戸で育っているため、東京に移住させられるということは、いわば実家に帰るようなものであった。ただし、薩摩藩国父の島津久光はこの廃藩置県に反対し、決行された日の夜には、大量に花火を打ち上げて憂さ晴らししたという。
次に地租改正を発令して、租税制度を年貢から現金払いとすることで税の徴収をより確実なものとし、富国強兵を目指し殖産興業や兵役制度の制定に一層の力を注いだ。しかし、急進的な政策が民衆の不満を呼び、時には暴動も発生した。そうした暴動に対して、政府は軍を動員して鎮圧することで、事態の収拾を図った。

やがて、新政府は不平等条約改正のため岩倉具視や大久保利通、木戸孝允らを欧米諸国に派遣して、欧米の視察を行わせる。条約改正は失敗したものの、のちに政府の制度において参考となる多くの事物を学ぶことができた。その間、「留守政府」の西郷隆盛らは学制などを定め、政府を順調に運営していた。

木戸たちが日本に戻ってくると、江華島事件に端を発する「征韓論」論争が持ち上がり、政府の内部対立が深まったことで西郷は政府に失望し、鹿児島に帰ってしまう。これに連座して、板垣退助や後藤象二郎、江藤新平らも政府を去り、後に彼らは「民撰議院設立建白書」を政府に提出して、自由民権運動の幕開けを迎える。
そうして、戊辰戦争後に職にあぶれた士族も徐々に新政府への不満を高め、戊辰戦争から数年は政府から支給された秩禄が廃止されたところでフラストレーションがたまり、1876年の廃刀令で怒りを爆発させる。

1876年に前原一誠*16が起こした萩の乱や、過激派尊王組織である敬神党やそのリーダーである大田黒知雄が起こした秋月の乱はその廃刀令に対して真っ向から抵抗するものであったが、西洋の新兵器を大量に使用した政府軍に、戦国時代後期の装備で戦うのでは到底勝ち目がなかった。

なお、これより2年前には佐賀藩出身の司法卿・江藤新平が、政府の政治方針に絶望して北海道開拓使の島義勇と共に勃発させた佐賀の乱がある。
このとき、江藤は鹿児島に帰っていた西郷に援軍を要請するも拒否され、失意のまま反乱を起こすが、逮捕されたその日のうちに裁判が行われ、翌日斬首と決まった。その裁判は、江藤の申し開きを一切許さないものであったという。

西郷は帰郷してのち、県令の大山綱良*17の援助を得て「私学校」を設立し、困窮する若い士族に勉学や農作業を教えるなどして救済していた。この私学校には、かつて西郷の部下として働き、政府では陸軍少将を務めた桐野利秋や桐野のいとこにあたる別府晋介、桐野と同じく西郷の部下であった篠原国幹も参加している。
鹿児島は私学校により、独立国家のような体制となっていた。事態を重く見た大久保利通は警視総監・川路利良に命じて私学校の監視を行わせる。そうして川路は、自らの部下である中原尚雄をスパイとして私学校に入学させる。
ほどなくして中原の正体が露見し、私学校の幹部から拷問を受けた中原が西郷の暗殺計画について口を割ると、激高した私学校の生徒らは桐野の制止も振り切って政府の弾薬庫を襲撃した。こうして、私学校は政府に対する反乱組織と完全に位置付けられてしまったのである。

西郷は観念して「おまんさあらの体は、この(オイ)が預かりもそ!」と政府に対して戦争を起こすことを決意。1877年(明治十年)2月。これが西南戦争の始まりであった。

当初は西郷軍が優勢であったが、谷干城が守備する熊本城戦を境に敗色が徐々に濃くなり、ついに城山に追い詰められた。西郷が洞窟から出たところ、西郷の腹部と脚を銃弾が貫く。死を悟った西郷は別府晋介を呼びつけ、「晋どん、もうここらで良か」と首をはねさせた。西郷以外にも桐野や別府、篠原などが戦死し、西郷軍はほとんどが全滅した*18

1877年9月、西郷の死をもって西南戦争は終結した。その8か月後には大久保利通が東京・四ツ谷の紀尾井坂で石川県士族・島田一郎らに暗殺される事件が発生する。島田ら襲撃犯は逮捕されたのち、皆処刑された。

これらの事件を経て、政府に不満を抱く士族のほとんどは、武力によって政府に抵抗することは不可能であると悟った。そうして、自由民権運動がいよいよ盛り上がりを見せていくのである。

幕末に関する用語 Edit

攘夷…日本から狄、つまり外国人を武力で打ち(はら)うこと。

尊王…天皇の権威を尊ぶこと。

天誅…本来は天の裁きという意味だが、人斬りが横行した幕末では「オレが天に代わって貴様に裁きを下すのだ」と自身の殺害行為を正当化する目的で用いられた。

鎖国…外国との国交を絶つこと。

開国…外国と国交を結び、通商を行うこと。

公武合体…皇室(公)と諸藩や幕府(武)を結びつけて、幕藩体制を再編し強化すること。和宮と徳川家茂の婚礼や、島津久光による文久の改革はこの公武合体の一環の政策である。

朱子学…儒学の一派で、年功序列を特に重んじる学派。この思想は江戸幕府にとっては藩を統制するには不可欠であったが、有事の際には融通がきかないという難点がある。

陽明学…善意から行動を起こすのであれば、何事もためらわずにおやりなさい、という教えを持つ儒学の一派である。こちらは、有事の際には柔軟に物事にあたることができる。

草莽…民間にあって地位を求めず、国家的危機の際に国家への忠誠心に基づく行動に出る人。

国際情勢 Edit

この頃、欧米諸国は帝国主義時代に突入していた。
ロシア帝国(ロマノフ朝)は南下政策を掲げ、日本に国交の樹立と通商を求めていた。
一方、イギリス(ビクトリア朝)はロシアを牽制し、香港やインドを植民地とした今、日本を虎視眈々と狙っていた。
しかし、結局のところ開国のスタートを切り、漁夫の利を得たのはアメリカであった。
幕府はフランスに協力を要請し、薩摩や長州はイギリスに協力を要請した。かつては両藩はイギリスとは敵対関係にあったが、両藩の熱心な交渉に応じて協力関係を築くこととなった。
当時のイギリスとフランスは対立状態にあったため、この対立構造は、ある意味でフランスとイギリスの代理戦争であると言えなくもない。アメリカで南北戦争が終結すると、有り余った武器が日本へ流出し、薩摩や長州などの倒幕派の藩が余った武器を買い上げていたため、戊辰戦争では旧幕府軍を圧倒することができた。なお、戊辰戦争の際、奥羽越列藩同盟はプロイセン(ドイツ)に協力を要請していたという。
戊辰戦争の最中、欧米諸国からの援助を各勢力が受けていたことで、日本がそれぞれの国から内政干渉を受け、分断されて植民地化される危険性は十分にあったが、戦争の終結が早かったことで、欧米諸国のそうした計画は頓挫したのである。

幕末という呼称の理由 Edit

我が国の歴史では、鎌倉幕府、室町幕府、そして江戸幕府の3つの幕府が登場する。その中で、鎌倉幕府の滅亡時並びに室町幕府の滅亡時を「幕末」と称する例はほとんど皆無である。

これは、鎌倉期及び桃山期は、幕府という組織が消滅していても武士が実権を握って跳梁跋扈していた時代であるが、19世紀末の日本の後半の情勢は天皇を中心とした政治体制に転向し、幕藩体制などの武家政権そのものが終焉を迎えたという意味を内包しているからであると推測される。

フィクションにおける幕末 Edit

「幕末」という時代は、戦国時代と並んで最も作品の題材にされやすい。それは、普段なら活躍できないような立場の人間が混沌とした情勢の中で活躍できたからであろう。鎌倉時代から600年以上続いていた武家による封建社会から、天皇を中心とした立憲君主制へと移り変わる切っ掛けとなった大きな政治的転換点、または開国に伴う外国からの技術・物品の大規模な流入による経済的・文化的変化が発生した時代としても見ることができる。
しかし、「絶対的な正義・絶対的な悪」が存在するわけではなく、時期によって敵・味方の関係性も変動しやすく、特定の藩や組織を扱う際に描かれ方が大きく異なってくることもまた事実である。

例えば、「新選組」は「京都の皇室を脅かす」攘夷派志士を取り締まるために結成されたのだが、いざ戊辰戦争で薩長ら「官軍」が優勢になるや、たちまち「賊軍」とみなされ、皇室史観が主流の戦前までは「皇室に弓引いた守旧派のならず者共」「明治新政権に必要とされたであろう人材を多く殺した外道の集団」のレッテルを張られていたのである。
長州藩にしても、この藩は歴史的な勝者となり、わが国の近代化の歴史を語るうえで欠かせない存在となったのだが、そこに至るまでの行動はとかく混迷を極めている。尊王攘夷をうたいながらも、「禁門の変」では天皇の身柄を確保して主導権を握ろうとした試みが裏目に出て「朝敵」のレッテルを張られてしまったことは、その典型的な例である。明治政府内において主導権を握ったのも、藩閥間の潰し合いに勝利した結果と言えよう。

敵も味方も何かしらの思想を掲げねばならず、その結果凄惨な粛清劇が広げられて多くの血が流されたことや、「尊王攘夷」と謳いながらも実際はそれが不可能であることを悟り、外国から武器などを買い集めるようになった矛盾も、この「幕末」という時代を善悪の二元論で分けて考えることを非常に難しくしている。
現在は幕末から150年以上が経過しているが、「もう昔のこと」と割り切れるほど古い時代ではないので、実在の人物を悪く描きすぎるとその人物の子孫から「よくもうちのご先祖様を貶したな!」と抗議が出かねないという事情も、幕末を題材にしたフィクションの作成を難しくしている。

関連項目 Edit

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*1 実際に鎖国体制が完全に敷かれたのは、3代将軍・家光の時代になってからである
*2 1825年制定。外国船が日本に不時着した場合、有無を言わさずその場で攻撃を仕掛けるという法令。この法令は蘭学者の高野長英や絵師の渡辺崋山により批判され、幕府は長英と崋山を逮捕したものの、この法令については何度も審議が行われた
*3 梅田は獄中で病死
*4 実美の父
*5 数日前に食したハモの食中毒により衰弱死したという説もある
*6 「武士としての自覚がない」という意味
*7 有馬は絶命間際、鎮撫使の一人に組み打ちされて身動きができなくなり、仲間の橋口吉之丞に「(オイ)ごと刺せ!」と叫び、我が身と共に鎮撫使の一人を討たせている。なお、橋口は戊辰戦争の最中にどさくさ紛れで処刑されている
*8 土佐勤王党員。首魁の武市半平太の命に基づき、武市が政敵とみなした人物を次々と屠る
*9 開明派の公卿・姉小路公知(あねがこうじきんとも)を暗殺?公知暗殺事件の後、なにも証言せずに切腹したため実際に新兵衛が手を下したかどうかは不明だが、現場に新兵衛のものと思われる刀が落ちていたという状況証拠からしてその可能性は高いとされる
*10 西郷吉之助(隆盛)の部下。上田藩出身の軍学者・赤松小三郎を暗殺
*11 開国論者の佐久間象山を暗殺
*12 坂本竜馬暗殺犯の説がある
*13 現在は、岩倉が睦仁親王を懐柔して作らせた偽物である可能性が高いとされる
*14 明治天皇の外祖父
*15 熾仁親王は東征大総督の職を志願していた。それほど、自身の許嫁である和宮を奪った幕府が憎かったのだろう
*16 長州藩出身。元参議だが、同じ長州出身の木戸孝允と対立して辞職していた
*17 大山は西郷の幼馴染であった
*18 野村忍介や河野主一郎など、生存した人物がごくわずかではあるが存在する

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