徳川家康 のバックアップ(No.17)
徳川家康とは、戦国時代から江戸時代初期の三河国の大名、江戸幕府初代将軍である。
少年時代
1543年、三河岡崎城城主・松平広忠とその妻・於大の長男として生まれる。幼名は竹千代といった。 織田家臣時代
信長との同盟の翌年、三河一向一揆が発生し、一向宗徒の家臣の大半に背かれることとなる。しかし、一揆発生から半年ほどで一揆側との和議を結び、離反した本多正信や夏目広次などの家臣たちには投降したうえで、改宗する事を条件に帰参を許した。夏目広次はすぐに帰参したものの、本多正信はしばし流浪の旅をつづけ、姉川合戦ごろにはひょっこり戻ってきたといわれる(本能寺の変後の説あり)。 豊臣政権下
やがて、明智光秀を滅ぼし、賤ケ岳合戦で柴田勝家も打ち滅ぼし、力を掌握していた秀吉は信長の同盟相手であった家康と対立し、ついに小牧・長久手の合戦で干戈を交えることとなった。 関ヶ原
秀吉が亡くなってからというもの、秀吉子飼いの官僚政治を目指す文治派・石田三成と、同じく秀吉子飼いの武断派・加藤清正の対立のように、豊臣家は内部分裂を引き起こしていた。 徳川幕府、成る
1603年、家康は征夷大将軍に就任した。ここに、江戸幕府が樹立した。この状況は、日本に豊臣家と徳川家という最高権力者が並び立つという事態を意味していた。ただ、このころは家康に豊臣家を潰すという気はまだなく、孫娘の千姫を秀頼に嫁がせるなど、懐柔策をとっている。2年後には三男、秀忠に将軍職を譲渡。名目上は隠居の身となったが将軍職譲渡後も実権を握り続け、「大御所」として政治を行い続けた。これは将軍職を世襲にすることで、豊臣家に天下を返すつもりはないという意思を明確に示す意図があった。 逸話
子だくさん
合計すると男子11人、女子5人。秀忠以降の直系の子孫は「徳川宗家」と「御三家」といい、それ以外の一族は「親藩」の扱いを受けた。 死因
晩年、家康は3代目茶屋四郎次郎の勧めで天ぷらを食べたが食あたりし、突如激しい腹痛に見舞われたという。家康の主治医が診察を行ったところ、家康bの腹部にはしこりが見つかった。やがて、次第に食欲が衰えていき、顔色は悪く、吐き気も起こし、高熱としゃっくり、大量の痰に苦しめられたという。やがて、これらの症状が観察された3か月後、家康は逝去した。 三方ヶ原の戦い
三方ヶ原の合戦では、武田軍のあまりの強さにビビッてお漏らししてしまい、家臣に指摘されると「兵糧の焼き味噌を落とした」と言い訳したという逸話が残る。また、逃げ帰る途中に茶店で小豆餅を食い逃げして、店主の婆さんに追いかけられ 方広寺鐘銘事件
1614年、大坂冬の陣のきっかけとなる事件が発生した。「方広寺鐘銘事件」である。この頃、徳川将軍家は当初は豊臣家を一大名として存続させるために、懐柔策をとっていたが、状況によっては豊臣方との合戦に踏み切ることも考えていた。しかし、戦闘を起こすにあたって正当な大義目右分が見つからなかった。 コメント
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