徳川家康 のバックアップ(No.17)

徳川家康とは、戦国時代から江戸時代初期の三河国の大名、江戸幕府初代将軍である。

生没年1543(天文12)-1616(元和2)
出身地三河
松平広忠
於大
築山殿、西郷局、阿茶局など
子女松平信康、亀姫、秀忠、義直、頼宣、頼房など

少年時代 Edit

1543年、三河岡崎城城主・松平広忠とその妻・於大の長男として生まれる。幼名は竹千代といった。
3歳(以下、数え年)の1544年、於大の兄で家康から見て母方の叔父にあたる水野信元(?~1578)が今川氏を離反して織田家に臣従したため、広忠は今川氏との関係を配慮し、於大と離縁した。これにより、竹千代は母親と生き別れになってしまった。
6歳の時に今川家に人質に出されるも、家臣の戸田康光の裏切りで尾張の織田信秀に引き渡されて人質となった。この頃、幼き日の信長に会っており、親交があったという。
2年後には父・広忠が殺害され、ほどなくして今川家が安祥城を攻め、ここで今川家が人質に取っていた織田信広(信長の兄)と人質交換が行われ、竹千代は身柄を今川家に引き渡された。時の当主・今川義元は人質であるにもかかわらず竹千代を手厚く保護し、実子の氏真と分け隔てなく愛情を注いで育て、自身の名の「元」の字を与えており、竹千代は、16歳の時に元服してからは「松平元信」(ほどなくして元康に改名)と名乗った。さらに、今川家臣の関口氏の娘・瀬名と結婚し、信康と亀姫の2子を設けている。しかし、人質であるという身分は動かしがたく、今川家に従属する松平家臣団は堪え難きを耐え、忍び難きを忍ぶという生活を余儀なくされていた。
元康が18歳の時、元康の運命を大きく変える出来事が起こる。桶狭間合戦で、当主の今川義元が戦死したのである。元康は今川方の先鋒として出陣していたが、義元戦死の知らせが届くや否や、急いで岡崎城に帰還した。その後、今川家は嫡男の氏真が継ぐこととなったが、義元亡き後の今川家は力を失っていたのであった。元康は水野信元の説得を受け、1562年、織田信長と同盟を組んだ。清州同盟である。信長との同盟の直後、元康は名を「松平家康」と改めた。
これとほぼ時期を同じくして、家康は母の於大と再開しており、於大が1602年に74歳で亡くなるまで文通などで母子の交流が続いた。

織田家臣時代 Edit

信長との同盟の翌年、三河一向一揆が発生し、一向宗徒の家臣の大半に背かれることとなる。しかし、一揆発生から半年ほどで一揆側との和議を結び、離反した本多正信や夏目広次などの家臣たちには投降したうえで、改宗する事を条件に帰参を許した。夏目広次はすぐに帰参したものの、本多正信はしばし流浪の旅をつづけ、姉川合戦ごろにはひょっこり戻ってきたといわれる(本能寺の変後の説あり)。
その後は東三河豪族たちを臣従させ、甲斐の武田信玄と同盟を結び、1568年には今川氏真に降伏を促し、遠江を平定する。その後、三河守への叙任を勅許により成功させ、「徳川家康」を名乗るようになった。
やがて、遠江平定後は浜松城に本拠を移す。その後は織田の同盟軍として姉川の戦いに参戦。寡兵ながらも猛将・榊原康政や本多忠勝らの働きによりこれを打ち破った。
織田・武田間の軍事同盟の崩壊に伴い、次第に武田家との関係も悪くなっていった。1573年、三方ヶ原の戦いが発生する。当時、徳川家にとって遠江は心臓にあたる部分だった。そこを武田軍に襲撃されれば、徳川家はひとたまりもなく、また同盟相手の信長にも包囲網が形成され、危険な状態であった。しかし信玄は、浜松城を素通りして進軍していた。この武田軍の行動に嘗められたと感じた徳川軍は勇猛にも武田軍に突っ込んでいったが、これは信玄の罠で、徳川軍はその罠にまんまと引っかかったのである。
案の定、家康は当時最強の武田軍に惨敗し、織田軍からの援軍など多くの犠牲を払いながらも命からがら本拠地に戻っている。この際、本多忠勝の叔父の忠実や夏目広次などの古株の家臣を失っている。
家康は武田軍のさらなる出撃に供えていたが、武田軍が襲撃してくることはなかった。むしろ撤退を急いでいる様子であった。この三方ヶ原の戦いののち、信玄は病により、すでにこの世の人ではなかったのである。武田家の次の当主は、勝頼が受け継いだ。
1575年の長篠・設楽原の合戦では織田軍と連携して武田勝頼の騎馬軍団を打ち破る。これにより、家康は武田軍に敗北するという汚名を返上したのだった。
1579年、嫡男・信康と正室・瀬名(築山殿)に武田勝頼と内通しているという疑惑がかかった。家康は信長の命令により、両名の処分を余儀なくされた。家康は、両名の処分を生涯後悔していたという。
信康らの処断は、信長の命に従った結果であるというのが従来の説であった。
しかし、現在は信長は家康に両名の殺害を命じたわけではなく、「俺はこの件について何も干渉しないから、お前の思うとおりにしろ」と発言しており、両名にしても実際に武田家に内通していたという説や、家康と信康の親子関係が悪化しており、家臣の中でも家康派と信康派に分かれた内輪揉めが発生しかけており、事態の収拾を図るため、やむなく信康らを殺害した、という説が主流になりつつある。余談だが、本能寺の変の黒幕は徳川家康であるという説があり、その証拠に堺の旅行を楽しむほど行動に余裕のあったことや、妻子を自分に討たせた信長への怨恨が挙げられているが、築山殿事件に関する新説が主流になりつつある現在は、あまり「徳川家康=本能寺の変黒幕説」は顧みられなくなっている。
やがて、1582年春、信長は勝頼を天目山で打ち滅ぼす。ここに、武田家は滅亡した。最大の脅威がなくなったことでつかの間の平穏が織田家・徳川家に訪れ、信長にすすめられて家康は堺の観光旅行を楽しんでいた。そこに、家康を仰天させる知らせが届く。
京都本能寺で、信長が家臣の明智光秀の寝返りにあい、横死したのである。「本能寺の変」である。
家康はこのとき、わずかな供回りの家臣しかいなかったので、明智光秀の侵攻を受けて自害するということも一時は考えたが、伊賀忍者を率いる服部半蔵ら家臣の説得や伊賀忍者の多羅尾光俊の助けを得て、伊賀から伊勢へ抜ける山道を突破、三河への脱出に成功する。世に言う「神君伊賀越え」である。この時、旧武田家臣で、長篠合戦以降は徳川家に仕えた穴山梅雪(信君(のぶただ))が家康の身代わりとなって光秀軍に討たれている。
三河に帰還してからは京に向かおうとしたが、京都山崎で光秀が羽柴秀吉に討たれたという知らせが届くと、家康は甲斐や信濃に赴き、井伊直政に武田家の旧臣を召し抱えさせることに成功した。

豊臣政権下 Edit

やがて、明智光秀を滅ぼし、賤ケ岳合戦で柴田勝家も打ち滅ぼし、力を掌握していた秀吉は信長の同盟相手であった家康と対立し、ついに小牧・長久手の合戦で干戈を交えることとなった。
この戦の発端は、織田信長の3男・信雄が賤ケ岳の戦い以降、秀吉の専横ぶりを目にし、自身が初戦は秀吉の傀儡に過ぎないことに気が付き、秀吉を討つにあたって家康の協力が必要であると家康に泣きついたことであった。
大軍を擁する秀吉を相手に局地戦で圧倒し、勝利は確実に見えたが、事の発端である信雄が家康に相談することなく秀吉に謝罪して単独講和を結んだことにより、兵を退却させることを余儀なくされた。これにより、戦闘は膠着状態に陥った。
とはいえ、この戦闘において家康は「あれだけの大軍を率いた秀吉に勝利した」と称賛されていた。
当然、秀吉としては面白くないわけである。再度、秀吉は家康を攻めようとしたが、天正大地震が発生し、もはや戦闘どころではなくなってしまった。秀吉は、一度軍事的な攻撃を中止し、懐柔策をとることにした。自らの年老いた母親・なか(大政所)や妹・旭姫*1を家康に人質として送り、家康に上洛の意志を引き出させようとした。しかし、秀吉はこの時点ではまだ無位無官の武将に過ぎなかったため、朝廷に取り入って僅か一年程で従一位の位を手にし、ついには関白にまで上り詰めた。
関白の命令とあらば、当時従三位だった家康も逆らうわけにはいかず、上洛して秀吉の家臣となるよりほかなかった。
ただ、秀吉もバカではない。秀吉政権は盤石なものとはいいがたかったし、家康は長いこと上洛を拒んできたわけだから、もしうっかり家康の癇に障るようなことをして、反乱でも起こされてはそれこそたまったもんじゃあなかった。そこで、秀吉は1590年の小田原攻めの後、家康や三河家臣団に旧北条亮の関東への転封を命じた。そうはいっても、強硬に転封を命じたことで反発心を起こされては、この先の政務の雲行きも怪しくなる。その代償として、石高の上ではおよそ100万石の加増をした上、「石高の自己申告」等の異例の好待遇を行い、ある程度の自由な経営も認めていた。
当時の関東は北条家旧臣や反豊臣派の浪人が点在していたうえ、湿地帯でお世辞にも良い環境とは言えなかった。そこで家康は、自らを新田義貞の末裔、さらに遡れば源頼朝の血筋にあたる河内源氏の正当な末裔と名乗り、関東支配の正当性を持たせて反豊臣派の浪人たちを手懐けることに成功した。さらに当時ほぼ荒廃しかかっていた江戸に目をつけ、伊奈忠次の協力を得て、江戸の町づくりに専念した。
こうして、秀吉の治世が続く中、家康は秀吉に忠実に仕え(るフリをし続け)、その結果高い発言力や地衣を持ち、じわじわと力を増していく。そうして、秀吉も家康が自身に対する忠誠心が心からのものではないことに気付いていながらも、高い官位などを餌に忠実に仕えさせていた。さらに、自身の死後のことを考え、家康に勝手な政務を運営させないために家康を合議制に組み込んで、家康・毛利輝元・前田利家・宇喜多秀家・小早川隆景*2からなる五大老を設置し、さらに用心を重ねて五大老、特に家康を監視する目的で浅野長吉(長政)、石田三成、増田長盛、長束正家、前田(徳善院)玄以五奉行を設置している。
まさしく狐と狸、いや猿と狸の化かし合いである。
やがて、家康のターンが訪れる。1598年、二度目の朝鮮出兵の失敗に意気消沈した秀吉が、突如この世を去ったのである。

関ヶ原 Edit

秀吉が亡くなってからというもの、秀吉子飼いの官僚政治を目指す文治派・石田三成と、同じく秀吉子飼いの武断派・加藤清正の対立のように、豊臣家は内部分裂を引き起こしていた。
そこに家康はうまくつけ込み、「私が互いの利益が損なわれないように解決してやるから、ここは私の言うことを聞いて、おとなしくしていなさい」と恩を売って自らの味方を増やしていった。その間、家康は自身の子女を福島家や蜂須賀家、伊達家などに嫁がせ、ますます発言権を強めていく。しかし、大名家間の私的な婚姻は秀吉の時代には違法で、必ず秀吉(秀吉亡き後は秀頼)を通じて取り決めねばならなかったのである。家康のこのやり口にもろに反発したのが、石田三成である。三成は五奉行の構成員である前田玄以や増田長盛とともに家康の行動を問いただすが、のらりくらりと交わされてしまった。
秀吉の旧友で五大老の一人の前田利家は家康と三成の中継ぎ役となっていたが、秀吉の死のおよそ翌年に後を追うようにこの世を去る。これにより、家康はますます自らに権力を集中させていくこととなる。
その後、前田利家が亡くなったことで、加藤清正や福島正則、池田輝政や細川忠興、浅野幸長や加藤嘉明、黒田長政などの「七将」*3と呼ばれる武断派が暴発した。彼らはもともと慶長の役終結後に朝鮮から帰還した際、三成から冷遇され、殺意にまで発展するほどの激しい怒りを抱いていたのだが、利家の説得によりどうにか抑えていたのだった。
 彼らは三成暗殺の計画を練り、三成の屋敷を襲うが、そこはもぬけの殻であった。三成は自らの命の危険を察知しており、秀頼に請願して伏見城の屋敷まで逃亡していたのだった。
このとき、伏見城で政務を受け取っていた家康は七将から三成の身柄の引き渡しを要求されたがこれを拒否し、代わりに三成を隠居させる事と、三成によって下された朝鮮出兵に関する彼らへの判決を、再審して撤回することを約束した。そうして、三男の結城秀康に三成が佐和山城に帰るまで護送させたという。
家康は、このときは三成と協力して豊臣家の家政を取り仕切ることを考えており、中立的に事態を解決しようとしたが、結果的に家康と三成の関係を悪化させることとなってしまった。
1600年、石田三成は毛利輝元を総大将に奉じて挙兵。関ヶ原合戦の火ぶたが、ここに切って落とされた。当初は三成軍が優勢であったが、小早川秀秋の裏切りにより、戦局は逆転。小早川隊が大谷吉継軍になだれ込んでからは西軍は総崩れとなり、決着はわずか一日でつき、家康の勝利に終わった。
従来では、家康軍が小早川軍に脅しで鉄砲を打ち込み、おののいた小早川軍が裏切りを決意した…といわれてきたが、これは江戸時代の軍記物語の創作であるという見解が強まっている。とはいえ、わずか18歳の青年の行動が日本の未来を決定づけたという事実は動かしがたい。

徳川幕府、成る Edit

1603年、家康は征夷大将軍に就任した。ここに、江戸幕府が樹立した。この状況は、日本に豊臣家と徳川家という最高権力者が並び立つという事態を意味していた。ただ、このころは家康に豊臣家を潰すという気はまだなく、孫娘の千姫を秀頼に嫁がせるなど、懐柔策をとっている。2年後には三男、秀忠に将軍職を譲渡。名目上は隠居の身となったが将軍職譲渡後も実権を握り続け、「大御所」として政治を行い続けた。これは将軍職を世襲にすることで、豊臣家に天下を返すつもりはないという意思を明確に示す意図があった。
このことに対し、秀頼の母・茶々は激怒した。家康の将軍就任は、茶々は、まだ幼い秀頼を補佐するためのことであると勝手に考えていたからである。しかし、将軍職が秀忠に譲られることで、豊臣家は一介の大名でしかなくなってしまったのだ。
この家康の行動に、「秀頼様こそ正当な天下人だ」と考える大野治長ら豊臣家臣も激怒し、豊臣家と徳川家がにらみ合うこととなる。一時は「西は豊臣、東は徳川の分割統治」や「大坂城を出て豊臣家が一大名として徳川に降る」といった穏当な案が出たとも言われるが、最終的には茶々がそれらのすべての要求をはねのけ、交渉は決裂。
1614年、家康も豊臣家を討つ準備にかかっていた。当初は家康としても、なるべく豊臣方と争うことを避けようとしていたが、会談が決裂して以降は豊臣家との戦闘もやむなしと考え、豊臣家との合戦の大義名分を考えあぐねていた。それを家康に入れ知恵したのが、金地院崇伝である。
秀頼が父・秀吉が建立した方広寺を再建する際に、鐘に刻まれた銘文に「国家安康 君臣豊楽」とあり、その銘文が「家康の名を引き裂いて呪い、豊臣を楽しみとする」という意味であると、豊臣方に苦情を申し出た。当然豊臣方はこれを否定し、大蔵卿局(淀殿の乳母で、大野治長の母親)を派遣し、弁明に及び、一度は家康もこれを許した。そうして、家康は豊臣方に最後通牒として大名として臣下となることを命じたが、豊臣方がこれを拒否したため、合戦もやむを得なかった。
この方広寺の鐘銘事件より3年前、家康は二条城にて秀頼と面会している。家康は秀頼の様子を「賢そうな青年であった」と証言しており、一説にはそこから秀頼特有のカリスマ性を感じ取り、豊臣家が徳川家にとって脅威となることを恐れ、豊臣家を一大名として大きく力を削ぐべきだと考えを改めたといわれる。
大坂冬の陣では木津川口・今福・鴫野・博労淵などの局地戦で勝利を重ねたが、真田幸村との戦いでは敗戦を喫した。とはいえ、全体的には優勢で、最終手段として大阪城に大砲を数発撃ち込んだことで、恐れをなした茶々が降伏を申し出た。こうして、豊臣方と徳川方は一度は和解した。
とはいえ、豊臣家の底力を知っていた家康は、和睦締結後に大阪城の内堀までを埋め立てた。これにより、大阪城はほぼ丸裸となった。
この頃になると、豊臣方は茶々や大野治長らの主戦派と、片桐且元らの恭順派に分裂していた。主戦派は恭順派の追放を行い、埋め立てられた内堀などを掘り起こそうとしたが、これが徳川方に「合戦を起こそうとしている」とみなされてしまい、徳川方は最後通牒として、大坂城内の浪人の追放と豊臣氏の移封を要求した。その要求もはねのけられ、1615年、大坂夏の陣が勃発。
この戦闘は徳川方の圧倒的有利に進み、各局地戦で徳川方は大勝を収めた。落城寸前まで抵抗を続けた為に、秀頼や茶々は降伏を認められず、自害して果てた。ここに、豊臣家は滅亡した。
後の憂いを除くため、徳川将軍家の権力を盤石にするため、家康は大坂の陣直後に禁中並公家諸法度、武家諸法度、一国一城令を制定した。名実ともに、完全に徳川将軍家が日本の支配者となった。
1616年6月、家康は駿府で死去した。享年74歳。死後、3代将軍の孫の家光*4により「東照大権現」として神格化され、日光東照宮に合祀された。

逸話 Edit

子だくさん Edit

合計すると男子11人、女子5人。秀忠以降の直系の子孫は「徳川宗家」と「御三家」といい、それ以外の一族は「親藩」の扱いを受けた。
長男・松平信康
文武両道に優れ、将来を嘱望されていたが、武田家内通の嫌疑がかかり、母の築山殿と自害。なお、本人は一時岡崎城に移り住んでいたため岡崎姓を名乗ったことはあるが、人生の大半は松平姓を名乗り続けてきたことが判明しており、「徳川信康」と表記するのは厳密には誤り。
次男・結城秀康
家康が「御手付き」してしまった女性・お万の方の子供であるが故、母子ともに遠ざけられ、小牧長久手の戦いの後に豊臣秀吉の養子となるが、後に結城家に養子に入る。越前松平家、津山松平家の開祖。幼少期は魚のギイ(ナマズ)にそっくりな顔立ちだったらしく、於義伊と名付けられている。おい。
三男・徳川秀忠
2代目徳川将軍。家康存命中は関ヶ原合戦の遅刻など大ポカが目立ったが、家康から帝王学の教えを受け、将軍としての能力を発揮する。
四男・松平忠吉
関ヶ原の戦いで島津豊久(義弘の甥)を討ち取ったという。戦の傷がもとで破傷風にかかり、わずか28歳で亡くなった。
五男・武田信吉
家康が51歳の時の子。母方の血筋から武田姓を名乗る。元々病弱で、わずか20年ほどしか生きられなかった。
六男・松平忠輝
DQN。大坂の陣後、もともと気性が荒く、素行が悪かったことで家康から勘当され、伊勢国に流罪となる。後に諏訪に移されたが、諏訪に移されてからは反省したのか、あるいはストレスがなくなったからなのか一転して性格が丸くなり、地元の人々と気さくに交流し、5代将軍・綱吉の時代まで生きたという。享年92歳と、当時としてはかなりの長寿(現在の感覚で110歳代)である。
生まれつきクッソブs…美形とはお世辞にもいえない顔立ちであったと言われ、家康が忠輝を追放した真の理由は、その風貌のせいであるとも言われる。ただ、忠輝を勘当したことにやはり後ろめたい思いがあったのか、家康は形見として「野風の笛」という一節切(ひとよぎり)(尺八の前身)を与えている。
七男・松平松千代
八男・松平(平岩)仙千代 
いずれも10歳にもならずに早逝。
九男・徳川義直
尾張藩開祖。家康が59歳の時の子供。
十男・徳川頼宣
紀州藩開祖。家康が60歳の時の子供。暴れん坊将軍こと吉宗のおじいちゃん。
十一男・徳川頼房 
水戸藩開祖。家康が61歳の時の子供。家光の叔父だが、それほど年が離れていないので兄弟のような関係であった。家光とかなり仲が良かったという。
長女・亀姫
奥平信昌に嫁ぐ。信昌は終生彼女を愛し続け、側室を置かなかったとか。
次女・督姫
北条氏政に嫁ぐ。氏政が自害したのちは、初代岡山藩主・池田輝政に嫁いだ。
三女・振姫
蒲生氏、次いで浅野氏に嫁ぐ。
四女・松姫
五女・市姫
いずれも早逝。

死因 Edit

晩年、家康は3代目茶屋四郎次郎の勧めで天ぷらを食べたが食あたりし、突如激しい腹痛に見舞われたという。家康の主治医が診察を行ったところ、家康bの腹部にはしこりが見つかった。やがて、次第に食欲が衰えていき、顔色は悪く、吐き気も起こし、高熱としゃっくり、大量の痰に苦しめられたという。やがて、これらの症状が観察された3か月後、家康は逝去した。
こうした症状と現代医学を照らし合わせると、家康の死因はすい臓がんではないかとされている。家康は薬オタクであったため、主治医の止めるのも利かず自身の煎じた薬を服用し続けた。ちなみに、その主治医は島流しにされたとまで言われている。家康はこれらの症状から、寄生虫によるものであると断定していたため、それが症状の深刻化を早めたとされている。

三方ヶ原の戦い Edit

三方ヶ原の合戦では、武田軍のあまりの強さにビビッてお漏らししてしまい、家臣に指摘されると「兵糧の焼き味噌を落とした」と言い訳したという逸話が残る。また、逃げ帰る途中に茶店で小豆餅を食い逃げして、店主の婆さんに追いかけられ(のちのターボばあちゃんである)、観念して金を払ったといわれるが、これらの逸話はほぼ創作であるとされる。
とはいえ、家康にはこの時の敗戦が相当心に深く刻まれたようで、絵師に自身がしかめっ面をしている様子、いわゆる「しかみ像」を描かせ、慢心しかけた時にはその肖像画を見て考えを改めたという。家康は強敵とはいえ、武田信玄を自らの師匠として尊敬し、武田家の戦法「赤備え」を自軍に取り入れたほか、井伊直政に命じて武田家旧臣を登用させている。信玄もまた、家康の実力はある程度認めてはいたようで、三方ヶ原合戦の際に家康が敗走し、その最後っ屁的な戦法である「空城の計」を実行した際には、家康を深追いして撃ち滅ぼしても状況的には問題はなかったにもかかわらず、いきり立つ家臣団を宥めそのまま自領に戻っている。

方広寺鐘銘事件 Edit

1614年、大坂冬の陣のきっかけとなる事件が発生した。「方広寺鐘銘事件」である。この頃、徳川将軍家は当初は豊臣家を一大名として存続させるために、懐柔策をとっていたが、状況によっては豊臣方との合戦に踏み切ることも考えていた。しかし、戦闘を起こすにあたって正当な大義目右分が見つからなかった。
そうした中で、豊臣秀頼が方広寺に大仏を造立した。これは、秀吉がかつて大仏を造立していたのだが、地震で倒壊してしまい、秀吉が再び造立された大仏を見る前にこの世を去ったため、この大仏造立は豊臣家の悲願であった。
そうして、大仏造立が成功した祝いに、片桐且元は鐘に以下の文言を刻んだ。


「国家安康 君臣豊楽」


これに目をつけた家康は、「『国家安康』とは家康の名を裂いて呪い、『君臣豊楽』とは豊臣を楽しみとする、という意味だ!」と激怒し、儒者の林羅山にも解読を依頼したところ、羅山も家康の解読を正しいと断定した。
その後、豊臣家から大蔵卿局(茶々の乳母で、大野治長の母親)が派遣された。
大蔵卿局は、銘文の意味を「国家の平和と、主君や臣下が平和であることを祈ったものです」と説明し、家康は一度はこの鐘銘のことを不問に付すこととした。
しかし、豊臣・徳川両家の仲介役であった且元は、講和の条件として、以下の3条件を秀頼に提示した。


一、秀頼を大坂から退去させ、伊勢か大和に領地換えさせること
二、秀頼を江戸へ産金させること
三、茶々を江戸に人質として送ること


当然、茶々や大野治長はこの条件を受け入れるはずもなかった。両名は且元を「徳川に通じた間者」とみなし、片桐は両名の息のかかった者たちから襲撃を受けて死にかけたのであった。身の危険を感じた且元は、家康のもとに駆け込み、助けを求めた。家康は且元を保護し、これが宣戦布告であるとみなし、いよいよ豊臣方の合戦に踏み切ったのである。
ここまでが、方広寺鐘銘事件のあらましである。従来は、この方広寺の鐘銘は徳川方の言いがかりとされてきたが、近年は豊臣方の悪意によるものと説明されている。
まず、「家康」という名は「諱」であり、主君か親族(父母や祖父母、叔父叔母など)しかその名前を呼ぶことが許されなかった。もし、この鐘銘事件が発生した際、家康が豊臣家に臣従していれば、そもそもこうした事件は発生していなかった。
しかし、この事件の3年前に秀頼が家康とに上場で面会した際、豊臣家は徳川家の臣下となったのである。家臣が主君の諱を呼び捨てすることは、家臣が主君を見下すことになり、とんでもなく失礼な話だったのだ。五山派の僧侶もこの碑文に対して「百歩譲って呪いの意を込めたものではないにしても、諱を組み込むのはまずいだろう」と述べている。
さらに、この碑文を考案した臨済宗の僧侶・文英清韓が「国家安康」という碑文に対して「お祝いのために家康という名前を分断して組み込んだ。しかし、あくまでも家康様を呪ったというわけではない」と弁明している。しかし、それは愚にもつかない言い訳に過ぎず、そもそも諱を入れている時点でアウトなのだ。
この事件を受け、使者として赴いた大蔵卿局の明らかに苦しい言い分を家康は一応は聞き入れ、この鐘銘事件については許しているのである。このことから、方広寺鐘銘事件は徳川方の言いがかりではなかったということがわかるのである。

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*1 後に家康の側室となるが、秀吉の天下統一事業の完了後、若くして亡くなる
*2 朝鮮出兵の際に隆景がこの世を去ったので、上杉景勝にメンバーチェンジ
*3 池田輝政や加藤嘉明を除き、蜂須賀家政や藤堂高虎を入れる意見もある
*4 家光の将軍就任には、乳母の春日局が家康に直訴したことにより、家康が正式に2代将軍の跡継ぎを、秀忠の長男にあたる家光と指名したことが大きな要因である。以来、家光は自身の将軍職就任のために動いてくれた乳母や祖父を終生尊敬し続けた。

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