幕末 のバックアップ(No.15)
幕末とは、日本の歴史において幕府の政権の末期を指す用語である。普通、19世紀中盤の日本の情勢を指して呼称する。ここでは、1841年から1877年にかけての社会変革について解説する。 歴史上の流れ
序盤戦
天保12年(1841年)、江戸幕府は老中に水野忠邦を就任させ、忠邦は「天保の改革」を行った。 中盤戦
老中の安藤信正は、公武合体政策推進の一環として、孝明天皇の妹・和宮親子内親王を許嫁の有栖川宮熾仁親王と別れさせ、将軍・徳川家茂に嫁がせる計画を練っていた。これが尊王攘夷派に知られてしまい、過激派に襲撃された信正は、背中に負傷したものの、命に別状はなかった。しかし、背中に負傷したことが「士道不覚悟」*6とされ、失脚を余儀なくされた。これが坂下門外の変の顛末である。 後半戦
長州はかつて関門海峡にて外国船を砲撃した報復として、英仏蘭米の攻撃を受け、敗北する(下関戦争)。ここに長州も、当時最強の兵器を前にした攘夷の無力さを痛感したのである。さらに、幕府は勅命を受け、長州勢を惨敗へと追いやった(第一次長州征伐)。 菊は芽が出る 葵は枯れる
慶応4年1月(1868年1月)、鳥羽伏見の戦いを機に新政府軍と旧幕府軍との「戊辰戦争」が勃発。当初は兵力の上では幕府側が有利であったが、新政府軍は有栖川宮熾仁親王を東征大総督に、仁和寺宮嘉彰親王を征討大将軍にそれぞれ任じ*13、岩倉具視の発案で「錦の御旗」を掲げる。これは、新政府軍を「官軍」とすることで、旧幕府軍が自動的に「賊軍」となってしまい、戦意を喪失させることとなった。この戦いで新政府軍は旧幕府軍に勝利。そのまま江戸に軍を進めていった。 そして明治へ…
ここに、日本は近代国家としてのスタートを切り始めた。 幕末に関する用語
攘夷…日本から夷狄、つまり外国人を武力で打ち 国際情勢
この頃、欧米諸国は帝国主義時代に突入していた。 幕末という呼称の理由
我が国の歴史では、鎌倉幕府、室町幕府、そして江戸幕府の3つの幕府が登場する。その中で、鎌倉幕府の滅亡時並びに室町幕府の滅亡時を「幕末」と称する例はほとんど皆無である。 フィクションにおける幕末
「幕末」という時代は、戦国時代と並んで最も作品の題材にされやすい。それは、普段なら活躍できないような立場の人間が混沌とした情勢の中で活躍できたからであろう。鎌倉時代から600年以上続いていた武家による封建社会から、天皇を中心とした立憲君主制へと移り変わる切っ掛けとなった大きな政治的転換点、または開国に伴う外国からの技術・物品の大規模な流入による経済的・文化的変化が発生した時代としても見ることができる。 関連項目
コメント
閲覧者数
|