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日本史年表 のバックアップ(No.13)
このページでは、日本史の古代から現代にいたるまでの出来事を年表にまとめている。時代区分は、高校日本史の指導要領に拠った。また、室町後期、いわゆる「戦国時代」は項目を立てて独立化させ、江戸時代は「幕末」以前の出来事は「近世」の項目に組み込み、「幕末」以降の出来事は記事の冗漫化を避けるため「近代」の項に組み込んだ。
古代
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| 紀元前2万年頃 | 現生人類が入植 |
| 紀元前3500年頃 | 三内丸山遺跡(青森県)に定住型の大規模集落が形成 |
| 紀元前1500年頃 | 三崎山遺跡(山形県)において青銅刀が使用される |
| 紀元前1000年頃 | 亀ヶ岡遺跡(青森県)などで遮光器土器が盛んに作られる |
| 紀元前1000年頃 | 菜畑遺跡(佐賀県佐賀市)や板付遺跡(福岡県福岡市)などでの水稲栽培の開始 |
| 紀元前300年頃 | 吉野ケ里遺跡に大規模な環濠集落が形成される |
| 57年 | 倭の奴国王、後漢に遣使し、光武帝から印綬を受ける |
| 107年 | 倭の面土国*1の王・帥升*2が後漢に遣使 |
| 180年(推定) | 倭国大乱 |
| 239年 | 邪馬台国の女王卑弥呼、魏に遣使し、金印紫綬を授かる |
| 邪馬台国と狗奴国の抗争激化 | |
| 266年 | 邪馬台国の |
| 316年 | 仁徳天皇が民衆の税を三年間免除 |
| 4世紀前半 | 巨大な前方後円墳が数多く造営される |
| 4世紀中頃(推定) | ヤマト王権の成立 |
| 369年 | 百済の近肖古王が倭王に七支刀を献上 |
| 391年~404年 | ヤマト王権による朝鮮半島侵攻(第一次倭・高句麗戦争) |
| 413年~5世紀末 | 倭の五王(讃*4・珍*5・済*6・興*7・武*8)、中国南朝の宋に朝貢 |
| 421年 | 倭王讃、中国南朝の宋に遣使 |
| 438年 | 倭王珍、中国南朝の宋に遣使し、「安東将軍倭国王」の称号を賜る |
| 443年 | 倭王済、宋に遣使し、「安東将軍倭国王」の称号を賜る |
| 451年 | 倭王済、「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東将軍倭国王」の称号を賜る |
| 462年 | 倭王の世子・興、「安東将軍 倭国王」の称号を賜る |
| 464年 | ヤマト政権によるニ度目の朝鮮半島侵攻(第二次倭・高句麗戦争) |
| 479年 | 倭王武、宋に遣使し、「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東将軍 倭国王」の称号を賜る |
| 507年 | 武烈天皇に子がなく、北陸から継体天皇が迎えられる |
| 527年 | |
| 538年(552年説あり) | 百済の聖明王、経典と仏像を献上(仏教公伝)。儒教もこのころ伝わったと推定される |
| 540年 | 伽耶問題*9で大伴金村が失脚 |
| 552年 | 蘇我稲目と物部尾輿が崇仏争論を展開 |
| 562年 | 伽耶(任那)が新羅により滅亡 |
| 587年 | 丁未の変(蘇我馬子が物部守屋を滅ぼす) |
| 592年 | 崇峻天皇、蘇我馬子の名を受けた |
| 593年 | 推古天皇(歴史上初の女帝)が即位。厩戸王(聖徳太子)の摂政開始 |
| 厩戸王、四天王寺を建立 | |
| 600年 | 史料上初の遣隋使派遣*10 |
| 603年 | 厩戸王、冠位十二階を制定 |
| 604年 | 厩戸王、十七条憲法を制定 |
| 607年 | 小野妹子を隋に派遣する*11 |
| 厩戸王、法隆寺を創建 | |
| 622年 | 厩戸王死去 |
| 630年 | 第1回遣唐使・犬上御田鍬を派遣 |
| 643年 | 山背大兄王(厩戸王の子)、蘇我入鹿に滅ぼされる |
| 645年 | 中大兄皇子と中臣鎌足、蘇我氏の直系を滅亡させる(乙巳の変)。大化改新の嚆矢 |
| 646年 | 改新の詔 |
| 649年 | 右大臣・蘇我倉山田石川麻呂が謀反の疑いを受け、自害。中大兄皇子が蘇我氏の権力増強を恐れたため、罪を着せて粛清したものと考えられる |
| 652年 | 最初の班田収授が施工される |
| 658年 | 有馬皇子、謀反の計画が暴露されてだまし討ちに遭う |
| 660年 | 百済滅亡。 |
| 663年 | 白村江の戦い。倭国軍が唐・新羅連合軍に惨敗し、朝鮮半島における倭の勢力圏の完全消滅。倭は唐・新羅からの侵攻に備えて西日本各地に大野城や |
| 668年 | 高句麗滅亡。高句麗人が日本に渡来 |
| 中大兄皇子が即位。「天智天皇」として知られる | |
| 672年 | 壬申の乱。天智天皇の甥・大海人皇子が即位。「天武天皇」として知られる。天智天皇の太子・大友皇子は敗戦後自殺 |
| 飛鳥京に遷都 | |
| 683年頃 | 富本銭の鋳造 |
| 684年 | 八色の姓を制定 |
| 白鳳地震 | |
| 694年 | 藤原京に遷都 |
| 697年 | 持統天皇、草壁皇子の子・軽皇子(のちの文武天皇)へ譲位 |
| 701年 | 大宝律令の成立。倭国、国号を「日本」と定める*12 |
| 710年 | 和銅3年 | 平城京への遷都 |
| 712年 | 和銅5年 | 稗田阿礼らにより『古事記』成立 |
| 718年 | 養老2年 | 養老律令の成立*13 |
| 720年 | 養老4年 | 『日本書紀』成立 |
| 僧侶による社会事業が諸国で行われる。代表的な人物は行基 | ||
| 723年 | 養老7年 | 三世一身法 |
| 727年 | 神亀4年 | 渤海使が初めて渡来 |
| 729年 | 神亀6年 | 長屋王の変。長屋王、藤原4兄弟に館を襲撃されて妻子とともに自殺 |
| 729年 | 天平元年 | 聖武天皇の后に光明子(光明皇后)を冊立 |
| 735年~737年 | 天平7~9年 | 天然痘大流行。藤原4兄弟、天然痘により全員死去 |
| 740年 | 天平12年 | 藤原広嗣の乱 |
| 聖武天皇、恭仁京の建設を開始 | ||
| 741年*14 | 天平13年 | 聖武天皇による諸国への国分寺・国分尼寺建立の詔 |
| 743年 | 天平15年 | 墾田永年私財法 |
| 752年 | 天平勝宝4年 | 東大寺大仏の開眼供養。聖武太上天皇も出席 |
| 754年 | 天平勝宝6年 | 唐出身の僧の鑑真、来朝して律宗を伝える |
| 757年 | 天平宝字元年 | 橘奈良麻呂の乱 |
| 758年 | 天平宝字2年 | 孝謙天皇が譲位し、淳仁天皇が即位する |
| 759年(推定) | 天平宝字3年(推定) | 『万葉集』成立 |
| 764年 | 天平宝字8年 | 藤原仲麻呂の乱(恵美押勝の乱) |
| 765年 | 天平神護元年 | 道鏡、太政大臣禅師に就任 |
| 769年 | 神護景雲3年 | 宇佐八幡宮神託事件。和気清麻呂、左遷の上「 |
| 784年 | 延暦3年 | 長岡京への遷都 |
| 785年 | 延暦4年 | 長岡京建設の責任者であった藤原種継が暗殺され、桓武天皇の弟・早良親王が流罪となる。大伴家持が藤原種継暗殺事件に関与したという容疑をかけられ官位剥奪*15 |
| 788年 | 延暦7年 | 最澄が延暦寺建立 |
| 794年 | 延暦13年 | 桓武天皇、平安京に遷都 |
| 801年 | 延暦20年 | 坂上田村麻呂、阿弖流為を降伏させ蝦夷を平定 |
| 805年 | 延暦24年 | 藤原緒継と菅野間道のあいだで徳政相論が行われる。桓武天皇、蝦夷征討と平安京造都を停止 |
| 810年 | 弘仁元年 | 蔵人所設置 |
| 薬子の変。平城上皇と嵯峨天皇が対立するが、平城上皇が出家して決着。平城上皇の妾の藤原薬子は服毒自殺、その兄の仲成は射殺 | ||
| 816年 | 弘仁7年 | 空海が金剛峯寺を建立 |
| このころ検非違使を置く | ||
| 833年 | 天長10年 | 令義解の撰上 |
| 842年 | 承和9年 | 承和の変。藤原良房、 |
| 858年 | 天安2年 | 藤原良房、人臣として初めて摂政となる |
| 866年 | 貞観8年 | 応天門の変。大納言・ |
| 869年 | 貞観11年 | 貞観地震 |
| 887年 | 仁和3年 | 藤原基経、関白となる |
| 仁和地震 | ||
| 888年 | 仁和4年 | 阿衡の紛議。藤原基経、「詔勅中の『阿衡』の職務は名ばかりの実務がともなわない職」と宇多天皇に抗議し、一切の職務を放棄。宇多天皇は詔勅を撤回し、詔勅の起草者である |
| 893年(推定) | 寛平5年(推定) | 初めて滝口の武士を置く*16 |
| 894年 | 寛平6年 | 菅原道真の提言により遣唐使を廃止する*17 |
| 901年 | 昌泰4年 | 昌泰の変。菅原道真、藤原時平の讒言により大宰権帥に左遷される |
| 905年 | 延喜5年 | 『古今和歌集』成立 |
| 927年 | 延長5年 | 延喜式の撰上(施行は967年(康保4年)から) |
| 935年 | 承平5年 | 平将門、伯父の平国香を討つ(承平の乱) |
| 937年 | 承平7年 | 平将門の追捕を命じる官符を下す |
| 939年 | 天慶2年 | 平将門の乱。将門、自らを「親王」と名乗る |
| 939年 | 天慶2年 | 藤原純友*18の乱(天慶の乱) |
| 940年 | 天慶3年 | 平貞盛(平国香の遺児)・押領使藤原秀郷ら、平将門を討つ |
| 941年 | 天慶4年 | 押領使源経基・追捕使小野好古ら、藤原純友を討つ |
| 969年 | 安和2年 | 安和の変。源満仲らの謀反の密告により左大臣・源高明が失脚。これ以降、摂政・関白が常置 |
| 988年 | 永延2年 | 尾張の郡司・百姓ら、国守藤原元命の非政を訴える |
| 1000年~1014年頃 | 長保2年~長和3年頃 | 清少納言の『枕草子』、紫式部の『源氏物語』が成立 |
| 1017年 | 寛仁元年 | 藤原道長、太政大臣に就任 |
| 1019年 | 寛仁3年 | 刀伊の入寇 |
| 1028年 | 長元元年 | 平忠常の乱。東国に河内源氏が進出 |
| 1051年 | 永承6年 | 前九年の役。安倍氏滅亡 |
| 1069年 | 延久元年 | 延久の荘園整理令。記録荘園券契所が設置される |
| 1073年 | 延久5年 | 院の蔵人所を設置 |
| 1083年 | 永保3年 | 後三年の役。清原氏滅亡、奥州藤原氏の台頭 |
| 1086年 | 応徳3年 | 白河上皇、院政を開始*19 |
| 1098年 | 承徳2年 | 源義家、昇殿を許される。初めて武士が殿上人となる |
| 1108年 | 天仁元年 | 源義親の乱。義親、平正盛に討たれる |
| 1132年 | 長承元年 | 平忠盛(清盛)、昇殿を許される |
| 1156年 | 保元元年 | 保元の乱。朝廷が後白河天皇方と崇徳上皇方に分かれ争う。後白河天皇方が勝利し、崇徳上皇は讃岐に配流 |
| 1159年 | 平治元年 | 平治の乱。平清盛、源義朝を破る*20 |
| 1167年 | 仁安2年 | 平清盛、太政大臣に就任 |
| 1169年(1179年説あり) | 仁安4年 | 後白河法皇、『梁塵秘抄』を著す |
| 1173年 | 承安3年 | 平清盛、日宋貿易を開始。公式的な国交ではなかったが、商人間の交易が続くこととなった |
| 1175年 | 承安5年 | 法然が専修念仏を唱え始める |
| 1177年 | 治承元年 | 鹿ケ谷の陰謀。会合に居合わせた源氏の武士・多田之綱が平清盛に密告したことで露見。後白河法皇、謀反船頭のかどで幽閉さる。藤原成親は一旦は助命されて備前国に配流されるが、崖から突き落とされて死亡。西光( |
| 1180年 | 治承4年4月 | 以仁王、平家追討の令旨を発し、源頼政らとともに挙兵するが失敗 |
| 治承4年6月 | 福原行幸 | |
| 治承4年8月 | 石橋山の戦い。源頼朝、伊豆国で挙兵するが惨敗 | |
| 治承4年10月 | 富士川の戦い | |
| 1181年 | 治承5年1月 | 平清盛による南都焼討 |
| 治承5年3月 | 平清盛、熱病(マラリア?)で死去 | |
| 養和元年 | 養和の大飢饉 | |
| 1183年 | 寿永2年5月 | 倶利伽羅峠の戦い。木曽義仲挙兵 |
| 寿永2年10月 | 寿永二年十月宣旨 | |
| 寿永2年11月 | 水島の戦い | |
| 1184年 | 寿永3年1月 | 宇治川の戦い |
| 寿永3年2月 | 一ノ谷の戦い。源義経ら、摂津国福原で平家軍に大勝 | |
| 寿永3年 | 頼朝、鎌倉に公文所・問注所を置く | |
| 1185年 | 寿永4年2月 | 屋島の戦い |
| 寿永4年3月 | 壇ノ浦の戦い。平家滅亡。安徳天皇入水 |
| 1185年 | 文治元年 | 源頼朝、文治の勅許を得て、諸国に守護と地頭を設置 |
| 1189年 | 文治5年閏4月 | 源義経、庇護を受けていた奥州藤原氏四代目・泰衡からの襲撃を受けて衣川の館で戦死 |
| 文治5年7月~9月 | 源頼朝、奥州藤原氏を滅亡させる | |
| 1192年 | 建久3年 | 源頼朝、征夷大将軍に任ぜられる |
| 1199年 | 建久10年 | 源頼朝、急死。家督を長男・頼家が継承 |
| 頼家、左中将・鎌倉殿就任 | ||
| 十三人の合議制発足 | ||
| 梶原景時、失脚 | ||
| 1200年 | 正治2年 | 梶原景時の変(景時敗死、梶原氏滅亡) |
| 1202年 | 建仁2年 | 阿野全成*21、比企能員の策謀で甥の頼家により斬首刑を宣告される |
| 1203年 | 建仁3年 | 比企能員の変(能員謀殺、比企氏滅亡) |
| 源頼家、伊豆修善寺に幽閉される | ||
| 頼家の長子の一幡、殺害される | ||
| 1204年 | 元久元年 | 源頼家、暗殺される |
| 頼朝の三男の千幡、源実朝と改名し鎌倉殿就任 | ||
| 1205年 | 元久2年 | 畠山重忠の乱 |
| 牧氏事件(北条時政失脚、妻の牧の方とともに伊豆に流罪) | ||
| 牧氏事件の首謀者の平賀朝雅(牧の方の娘婿)、幕府に討たれる | ||
| 1213年 | 建暦3年 | 泉親衡の乱 |
| 和田合戦(和田義盛敗死、和田氏滅亡) | ||
| 1214年 | 建保2年 | 実朝、陳和卿*22とともに大船造立、渡宋を計画(失敗) |
| 1215年 | 建保3年 | 北条時政、伊豆にて病没 |
| 1218年 | 建保6年 | 北条義時、薬師堂建立 |
| 1219年 | 建保7年・承久元年 | 源実朝、鶴岡八幡宮にて甥の公暁に討たれる。源氏将軍断絶。源仲章、公暁に北条義時と誤認されて討たれる |
| 公暁、三浦義村に謀殺される | ||
| 1220年 | 承久2年 | 慈円、『愚管抄』を成立させる |
| 1221年 | 承久3年 | 後鳥羽上皇、北条義時追討の院宣を出す。北条政子の演説 |
| 承久の乱。幕府方の圧勝。後鳥羽上皇は隠岐島へ、土御門上皇は土佐へ、順徳天皇は佐渡へ流される。六波羅探題の設置 | ||
| 1224年 | 元仁元年 | 北条義時、急逝(毒殺説あり) |
| 1225年 | 元仁二年 | 伊賀氏の変*23。連署の設立 |
| 1226年 | 嘉六2年 | 九条(藤原)頼経*24が征夷大将軍に就任。摂家将軍の始まり |
| 1232年 | 貞永元年 | 北条泰時、貞永式目(御成敗式目)制定 |
| 1246年 | 寛元4年 | 宮騒動。北条家の分家筋・名越光時*25による反乱未遂事件。首謀者と見なされた将軍・九条頼経が鎌倉から追放 |
| 1247年 | 宝治元年 | 宝治合戦。三浦氏滅亡 |
| 1249年 | 建長元年 | 引付衆の設置 |
| 1252年 | 建長4年 | 将軍・九条頼嗣を京へ送還、宗尊親王が将軍に就任。宮将軍の開始 |
| 1260年 | 正元2年 | 琉球王英祖が即位? |
| 1266年 | 文永3年・至元3年 | 元皇帝 |
| 1268年 | 文永5年 | 北条時宗、執権就任 |
| 1272年 | 文永9年 | 二月騒動 |
| 1274年 | 文永11年 | 文永の役。1度目の「元寇」 |
| 1275年 | 健治元年 | 大宰府に派遣された元の使者・ |
| 1281年 | 弘安4年 | 弘安の役。2度目の「元寇」 |
| 1285年 | 弘安8年 | 霜月騒動 |
| 1286年 | 弘安9年 | 両統迭立の議、起こる。翌年、大覚寺統の後宇多天皇が譲位し、持明院統の伏見天皇が即位 |
| 1293年 | 永仁元年 | 鎌倉大地震 |
| 平禅門の乱 | ||
| 1297年 | 永仁5年 | 永仁の徳政令 |
| 1305年 | 嘉元3年 | 嘉元の乱 |
| 1317年 | 文保元年 | 文保の和談 |
| 1324年 | 正中元年 | 正中の変 |
| 1325年 | 正中2年 | 安藤氏の乱。津軽で蝦夷が蜂起し、蝦夷代官職の安藤氏を討った事件が発端となる |
| 1331年 | 元弘元年 | 後醍醐天皇、山城国笠置山で挙兵 |
| 兼好法師、『徒然草』を成立させる | ||
| 光厳天皇が即位する。北朝の初め | ||
| 1333年 | 元弘3年5月11日 | 小手指原の戦い。新田義貞vs鎌倉幕府 |
| 元弘3年5月12日 | 久米川の戦い。新田義貞vs桜田貞国 | |
| 元弘3年5月15日 | 分倍河原の戦い。新田義貞vs北条泰家 | |
| 元弘3年5月16日 | 関戸の戦い。新田義貞vs北条泰家 | |
| 元弘3年5月22日 | 東勝寺合戦。執権・北条高時が一族もろとも自害。鎌倉幕府が滅亡 |
| 1333年 | 元弘3年 | 護良親王、征夷大将軍就任 |
| 記録所・雑訴決断所・武者所を設置 | ||
| 1334年 | 建武元年 | 建武の新政。後醍醐天皇による親政が開始されるが、徹底した貴族中心主義により、かつて倒幕に尽力した足利尊氏ら武士の怒りを買う |
| 『二条河原の落書』が掲げられる | ||
| 1335年 | 建武2年 | 中先代の乱。北条高時の遺児・時行が御内人の諏訪頼重らに擁立され、鎌倉幕府再興のため挙兵し、鎌倉を一時的に支配するが足利尊氏により鎮圧 |
| 1336年 | 延元元年(北朝 建武3年) | 多々良浜の戦い |
| 湊川の戦い。楠木正成戦死 |
| 1336年 | 延元元年 | 後醍醐天皇、吉野へ還幸。南朝の初め |
| 1339年 | 延元4年 | 北畠親房が『神皇正統記』*26を成立させる |
| 1348年 | 正平3年(北朝 貞和4年) | 四條畷の戦い |
| 1336年 | 北朝 建武3年 | 足利尊氏、是円・真恵らに命じて『建武式目』を制定 |
| 1338年 | 北朝 暦応元年 | 足利尊氏、征夷大将軍に補任され、京都に幕府を開く。室町幕府のはじまり |
| 1349年 | 北朝 貞和5年 | 鎌倉府設置 |
| 1350年~1352年 | 北朝 観応元年~北朝 観応3年 | 観応の擾乱。足利尊氏・高師直vs足利忠義・忠冬父子。尊氏軍の勝利。忠義は乱の終結後急死(毒殺説が根強い) |
| 1361年 | 北朝 康安元年/南朝正平16年 | 正平地震 |
| 1368年 | 北朝 応安元年 | 武蔵平一揆の乱。この一機を発端として応安の半済令を施行 |
| 1378年 | 北朝 永和4年 | 足利義満、京都室町通今出川付近に新邸・花の御所を造営 |
| 1379年 | 北朝 康暦元年 | 康暦の政変。室町幕府管領・細川頼之が失脚 |
| 1389~1390年 | 北朝 康応元年~北朝 明徳元年 | 土岐康行の乱。美濃の守護大名・土岐康行が幕府に討たれる |
| 1391年 | 北朝 明徳2年 | 明徳の乱。「六分一殿」こと山名氏清が幕府に対して反乱を起こす |
| 1392年 | 元中9年(北朝 明徳3年) | 明徳の和約。南北朝合一 |
| 1394年 | 応永元年 | 足利義満、太政大臣就任 |
| 1399年 | 応永6年 | 応永の乱。長門の守護大名・大内義弘が幕府に対し反乱を起こし討たれる |
| 1401年 | 応永8年 | 将軍足利義満、日明貿易(勘合貿易)の開始((1411年に一時断絶) |
| 1416年 | 応永23年 | 上杉禅秀の乱。関東管領の上杉氏憲が幕府に対し反乱を起こす |
| 1419年 | 応永26年 | 応永の外寇。李氏朝鮮による対馬への侵攻。朝鮮軍の惨敗に終わる。対馬と朝鮮の通交関係の回復 |
| 1428年 | 正長元年 | 正長の土一揆。興福寺が徳政令を出す。「正長元年ヨリサキ者カンヘ四カンカウニヲヰメアルヘカラス」(正長元年以前の神戸四カ郷への負債は帳消しにする) |
| 1429年 | 正長2年 | 播磨の国一揆。守護・赤松満祐により鎮圧 |
| 永享元年 | 大和永享の乱。興福寺大乗院衆徒の豊田氏と興福寺一乗院衆徒の井戸氏の対立が大和国内で大規模化した | |
| 尚巴志王が琉球を統一し、琉球王国が興る | ||
| 1438年~1439年 | 永享10年~永享11年 | 永享の乱。鎌倉公方・足利持氏vs関東管領・上杉憲実の対立 |
| 1440年 | 永享12年 | 結城合戦。結城氏朝が持氏の遺児の安王丸・春王丸・永寿王丸を奉じて挙兵。安王丸と春王丸は殺害されたが、永寿王丸は京都に護送され、長じて足利 |
| 1441年 | 嘉吉元年 | 嘉吉の乱。将軍・足利義教*27が守護・赤松満祐に暗殺される。ほどなくして赤松満祐は幕府軍に討たれる。義教亡き後は将軍職を義教の長男・義勝が継ぎ、義勝が数年で亡くなってからは幼い次男・義政が将軍職に就いたが、強力な権利を持った将軍は義教の代で終わった |
| 1443年 | 嘉吉3年 | 嘉吉条約。李氏朝鮮と対馬の間の貿易に関する協定。通交船や交易量の制限を定める |
| 1454年~1483年 | 享徳3年~文明14年 | 享徳の乱。足利成氏vs山内上杉家・扇谷上杉家。関東における戦国時代の始まり |
| 1455年 | 享徳4年 | 鎌倉公方足利成氏、鎌倉府から古河府に遷座 |
| 1457年 | 長禄元年 | コシャマインの戦い。アイヌ人酋長・コシャマインが花沢館主蠣崎季繁の家臣・武田(蠣崎)信広に討たれる |
| 太田道灌が江戸城築城 | ||
| 1458年 | 長禄2年 | 東国に古河公方と堀越公方が並立 |
| 1466年 | 文正元年 | 文正の政変。代将軍足利義政の側近・伊勢貞親と |
| 1467年~1477年 | 応仁元年~文明9年 | 応仁の乱。幕府の管領家の畠山氏と斯波氏を争いを発端とし、そこから足利義政の跡継ぎ問題(義政の弟・ |
| 1485年~1493年 | 文明17年~明応2年 | 山城国一揆 |
| 1486年 | 文明18年 | 雪舟、『山水長巻』を完成させる |
| 1487年~1505年 | 長享元年~永正2年 | 長享の乱 |
| 1487年~1491年 | 長享元年~延徳3年 | 長享・延徳の乱 |
| 1488年~1580年 | 長享2年~天正8年 | 加賀一向一揆。断続的に勃発し、織田信長に平定される |
| 1489年 | 延徳元年 | 足利義政、銀閣を完成させる |
| 1493年 | 明応2年 | 明応の政変により細川政権確立 |
| 北条早雲(伊勢新九郎宗瑞)が堀越公方を滅ぼす | ||
| 1498年 | 明応7年 | 明応地震 |
| 1510年 | 永正7年 | 三浦*28の乱。朝鮮で日本人の居留民が通交の制限を加えられたことに抗議するため反乱を起こす |
| 1523年 | 大永3年 | 明で細川氏と大内氏が寧波の乱を起こす |
| 1531年 | 享禄4年 | 享禄の乱 |
| 1536年 | 天文5年 | 天文法華の乱 |
| 1543年 | 天文12年 | ポルトガル人が大隅国種子島に漂着*29し、鉄砲を伝える |
| 1546年 | 天文15年 | 河越城の戦い。北条氏康と山内上杉家上杉氏・扇谷上杉家・足利古河公方連合軍の合戦 |
| 1549年 | 天文18年 | イエズス会のフランシスコ・ザビエル、マラッカを経由し、逃亡していた日本人・ヤジローを伴って薩摩国鹿児島に上陸し、キリスト教を伝える |
| 1550年以降 | 天文19年以降 | 南蛮貿易の開始 |
| 1553年~1564年 | 天文22年~永禄7年 | 川中島の戦い。武田信玄と上杉謙信が5回にわたって争うが、いずれも決着はつかず |
| 1555年 | 弘治元年 | 厳島の戦い。毛利元就が陶晴賢を破る |
| 1560年 | 永禄3年 | 桶狭間の戦い。織田信長が今川義元を破る |
| 1561年 | 永禄4年 | 清州同盟。織田信長と松平元康(徳川家康)の同盟 |
| 1564年 | 永禄7年 | 稲葉山城の戦い。織田信長が斎藤竜興を破る。木下藤吉郎の「一夜城」 |
| 1565年 | 永禄8年 | 永禄の変。14代将軍・足利義輝が松永久秀と三好三人衆に殺害される |
| 1568年 | 永禄11年 | 織田信長、足利義昭を奉じて入京し、織田政権確立 |
| 1570年 | 元亀元年 | 姉川の戦い。織田信長・徳川家康連合軍vs浅井長政・朝倉義景連合軍 |
| 1570年 | 元亀元年 | 布部山の戦い。山中鹿之助ら尼子家旧臣vs毛利元就 |
| 織田信長と足利義昭の関係が悪化する。足利義昭、近隣大名に信長討伐を命じる書を送付。第一次信長包囲網結成のはしりとなる | ||
| 金ヶ崎城の戦い。織田信長、朝倉義景軍討伐の為の遠征中、義兄弟の浅井長政に裏切られ、退却する | ||
| 1571年 | 元亀2年 | 信長、比叡山を焼き討ち。元々比叡山の僧侶の素行が悪く、信長は立ち退き勧告を行ったものの、比叡山の門徒たちがこれに反抗したため、やむなく焼き討ちを実行 |
| 1572年 | 元亀3年 | 三方ヶ原の戦い。徳川家康が武田信玄に惨敗する |
| 1573年 | 天正元年 | 武田信玄病没。第一次信長包囲網崩壊の始まり |
| 槇島城の戦い。信長、足利義昭を追放して、室町幕府が実質的に滅亡。義昭は毛利輝元の庇護を受け、一時的に備後・鞆に移住 | ||
| 一乗谷城の戦い。朝倉義景戦死 | ||
| 小谷城の戦い。浅井長政戦死 |
| 1575年 | 天正3年 | 長篠の戦い。織田信長・徳川家康連合軍vs武田勝頼軍。織田・徳川連合軍の圧勝 |
| 1576年 | 天正4年 | 安土城の築城開始 |
| 1576年 | 天正4年 | 天王寺の戦い |
| 1578年~1579年 | 天正6年~天正7年 | 御館の乱。上杉謙信亡き後の上杉家のお家騒動。謙信には実子がいなかったことと、謙信が跡継ぎを指名せずに亡くなったことにより、甥の景勝と北条家出身の養子が争い、景勝が勝利 |
| 1579年 | 天正7年 | 安土城落成 |
| 徳川家康嫡男・松平信康と正室・築山殿が武田家内通の疑惑により自害 | ||
| 1582年 | 天正10年 | 甲州征伐。武田勝頼戦死。武田家滅亡 |
| 織田家臣・明智光秀が本能寺の変を起こす。織田信長自害。長男・信忠も明智軍と奮戦を繰り広げるが衆寡敵せず戦死 | ||
| 徳川家康の伊賀越え | ||
| 山崎の戦い。羽柴秀吉は交戦中の毛利輝元と講和を結び、「中国大返し」を実行。明智光秀を破る | ||
| 清須会議。会議は明智光秀を破った羽柴秀吉に有利に進み、織田家の跡継ぎは信忠の遺児・三法師に決定するが、幼少の為、信雄が後見人に就任 | ||
| 天正壬午の乱。徳川家康vs北条氏政。羽柴秀吉と織田信雄の勧告で両者は和解 | ||
| 1582年~1590年 | 天正10年~天正18年 | 天正遣欧使節(伊東マンショ・原マルチノ・中浦ジュリアン・千々和ミゲル)がローマに渡航 |
| 1582年~1598年 | 天正10年~慶長3年 | 太閤検地 |
| 1583年 | 天正11年 | 賤ケ岳の戦い。羽柴秀吉vs柴田勝家・織田信孝。秀吉が両者を破り、織田家の実権を握る |
| 大坂城築城開始 | ||
| 1584年 | 天正12年 | 小牧・長久手の戦い。羽柴秀吉vs徳川家康・織田信雄。当初は徳川軍が優勢だったが、信雄が勝手に秀吉と和睦を行ったため、戦闘不能となる |
| 1585年 | 天正13年 | 羽柴秀吉、関白となり政権確立 |
| 1586年 | 天正14年 | 羽柴秀吉、太政大臣就任。豊臣姓を賜り、以降「豊臣秀吉」を名乗る |
| 天正地震。M7.8。最大震度は震度7。死者多数 | ||
| 1587年 | 天正15年 | 豊臣秀吉によるバテレン追放令。カトリック教会の宣教師を追放 |
| 1588年 | 天正16年 | 足利義昭、朝廷に征夷大将軍の職を返上。名実ともに「室町幕府」消滅 |
| 豊臣秀吉による刀狩令 | ||
| 1590年 | 天正18年 | 豊臣秀吉による小田原攻め。北条氏滅亡。秀吉による天下統一成る |
| 1591年 | 天正19年 | 豊臣秀吉、茶人・千利休に切腹を命じる。「わび茶」に対する思想の相違からの対立か? |
| 豊臣秀吉による身分統制令。士農工商の身分体系を確立させ、幕藩体制のはしりとなる | ||
| 1592年 | 文禄元年 | 豊臣秀吉による人掃令。全国の戸口調査を行う |
| 1592~1593年 | 文禄元年~文禄2年 | 文禄の役(壬申倭乱)。第一次朝鮮出兵。日本の使者・小西行長と明の使者・ |
| 1596年 | 慶長元年 | サン=フェリペ号事件 |
| 慶長伏見地震により伏見城が大破 | ||
| 1597年~1598年 | 慶長2年~慶長3年 | 慶長の役(丁酉倭乱)。第二次朝鮮出兵。豊臣秀吉の死去で日本側の全軍が帰国して講和を結ばずに終結 |
| 1598年 | 慶長3年 | 秀吉、五大老(徳川家康・毛利輝元・上杉景勝・前田利家・宇喜多秀家)・五奉行(浅野長政、石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以)を制度化 |
| 豊臣秀吉、伏見城にて死去 | ||
| 1599年 | 慶長4年 | 福島正則・加藤清正・池田輝政・細川忠興・浅野幸長・加藤嘉明・黒田長政ら七将による石田三成襲撃事件。三成は徳川家康の居城・伏見城に逃げ込み、家康は七将を説得して襲撃を中止させる |
| 1600年 | 慶長5年 | 関ヶ原の戦い。石田三成*30ら「西軍」vs徳川家康ら「東軍」。当初は「西軍」が優勢であったが小早川秀秋の寝返りで形勢逆転し、「東軍」の勝利となる |
| イングランド出身の商人のウィリアム・アダムズやオランダ出身の商人のヤン・ヨーステンが日本に上陸し、徳川家に仕える |
| 1601年 | 慶長6年 | 慶長金・慶長銀鋳造開始 |
| 1603年 | 慶長8年 | 徳川家康、伏見城で征夷大将軍の宣下を受け、江戸幕府を開く |
| 二条城の築城、将軍宣下に伴う賀儀が挙行される | ||
| 徳川家康、李氏朝鮮との国交回復 | ||
| 1605年 | 慶長10年 | 徳川秀忠、伏見城で征夷大将軍の宣下を受ける。家康は駿府城に移住し、「大御所」として君臨 |
| 1609年 | 慶長14年 | 島津家久による琉球侵攻。琉球王国が薩摩藩の支配下に置かれるが、明との貿易は続行が許可される |
| 己酉約条 | ||
| 1610年 | 慶長15年 | 徳川家康、京都の商人・田中勝介をノビスパン(メキシコ)に派遣 |
| 1613年 | 慶長18年 | 仙台藩主・伊達政宗が藩士・支倉常長を代表として慶長遣欧使節を派遣 |
| 方広寺鐘銘事件 | ||
| 1614年 | 慶長19年 | 大坂冬の陣 |
| 1615年 | 慶長20年 | 大坂夏の陣。豊臣氏滅ぶ。「 |
| 元和元年 | 武家諸法度(元和令)、禁中並公家諸法度を定める | |
| 1616年 | 元和2年 | 欧船の来航を平戸・長崎に制限 |
| 徳川家康、駿府城にて死去 | ||
| 1622年 | 元和8年 | 元和の大殉教 |
| 1623年 | 元和9年 | 徳川家光、伏見城で征夷大将軍の宣下を受ける |
| 1624年 | 寛永元年 | スペイン人の来航を禁じる |
| 1628年 | 寛永5年 | 踏絵制度の開始 |
| 1629年 | 寛永6年 | 紫衣事件、僧・沢庵は小豆島に流罪*32。後水尾天皇退位 |
| 1633年 | 寛永10年 | 奉書船以外の海外渡航を禁じ、海外渡航者の帰国を制限 |
| 1635年 | 寛永12年 | 参勤交代制度の確立 |
| 1636年 | 寛永13年 | 浅草・芝・坂本で寛永通寳鋳造開始、三貨体制確立 |
| 1637年~1638年 | 寛永14年~寛永15年 | 島原の乱。島原・天草地域の農民が島原藩主・松倉勝家の苛政に耐えかね、キリスト教徒の少年・天草四郎時貞を祀り上げて蜂起 |
| 1639年 | 寛永16年 | ポルトガル人の来航を禁止 |
| 1641年 | 寛永18年 | オランダ人を長崎出島に移住させる |
| 1642年(推定) | 寛永19年(推定) | 寛永の大飢饉 |
| 1643年 | 寛永20年 | 田畑永代売買禁止令を定める |
| 1651年 | 慶安4年 | 由井正雪の乱(慶安の変)。幕藩体制の転覆を狙った由井正雪が蜂起するも、仲間の密告により計画が漏れ、未実施に終わる。正雪と幹部の丸橋忠弥は斬首 |
| 1657年 | 明暦3年 | 明暦の大火。松平信綱と保科正之*33による江戸の復旧活動 |
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