十三人の合議制 のバックアップ(No.12)

十三人の合議制とは、鎌倉時代初期の幕府の指導体制を指す歴史用語である。

合議制のあらまし Edit

建久10年(1199年)正月13日、初代鎌倉殿・源頼朝(1147~99)が急死する。
そのわずか一週間後、頼朝の長男・頼家(1181~1204)は弱冠18歳にして左中将に任じられ、26日には朝廷から諸国守護の宣旨が下り、第2代鎌倉殿として頼朝の地位を継承した。
当初頼家は頼朝以来の側近・大江広元らの補佐を受けて政務を行っていたが、4月になり、頼家は裁判の判決を下す権限を失ってしまった。この理由としては、歴史書『吾妻鑑』には「頼家が従来の慣習を無視して己の思うがままに政治を運営しようとしたことで、頼家シンパの頼朝以来の側近(大江広元・中原親能・梶原景時)に対する他の有力御家人の不満・反発も起きたため」と記されているが、『吾妻鏡』に関しては北条家を持ち上げるスタンスで記されているため、その記述をそっくりそのまま信用することはできない。
ともあれ、有力者13人の合議により、裁判の判決が下されることになった。

合議制の実態 Edit

この合議制のシステムは、頼家が暗愚であったため、頼家による親政を阻止し、頼家の外戚・北条時政ら宿老13人の合議により取り計らい、彼ら以外の訴訟の取次を認めないと定めたことで執権政治への第一歩になったと理解されてきた。
頼家が暗愚であったという説の証拠としては、正治2年(1200年)の陸奥国新熊野社領の堺相論の逸話が挙げられる。
頼家は件の土地の地図を受け取ると、そこに縦に直線を引いてこう言い放ったという。


「所の広狭は其の身の運否に任すべし。使節の暇を費し、地下に実検せしむるにあたはず。向後堺相論の事に於いては、此の如く御成敗あるべし。若し未塵の由を存ずるの族に於いては、其の相論を致すべからず」(吾妻鏡)


ただし、同年8月には側近の僧・源性に陸奥国伊達郡の堺相論の実検に下向させているなど、頼家による親政が行われた例もあって、このことが十三人の合議制のシステムの詳細をより不透明なものにしている。
近年の研究では、この体制に将軍の独断を防ぐ機能を認めつつも、宿老の合議を経て頼家が最終判断を下す方式をとったもので、頼家の親裁そのものを否定してはいないとされる。
問注所の開設や拡大、政所の整備という点でも、まだ若い頼家の補佐のためのシステムであったという見解がある。

十三人の合議制のメンバー Edit

  • 北条時政(1138~1215)
    伊豆の国の豪族。長女の政子が頼朝と結婚したため、頼朝の挙兵を助けた。執権に就任し、将軍の血縁者として権力を高めるが、後妻の牧の方と共謀した牧氏事件によって失脚。
  • 北条義時(1163~1224)
    時政の次男。姉の政子が頼朝と結婚したため、父・時政や兄・宗時とともに頼朝の挙兵を助けた。時政失脚後に2代目執権に就任。
  • 比企能員(よしかず)(?~1203)
    頼朝の乳母・比企尼の養子。娘の若狭局が頼家に嫁ぎ、一幡を産んだ。頼朝死後は将軍の血縁者として北条時政と対立し、滅ぼされた。
  • 梶原景時(?~1200)
    当初は大庭景親の郎党として平家方にくみしたが、石橋山合戦において洞窟に潜伏していた頼朝を目撃しながらもやり過ごす。以降は景親らを見限って頼朝に側近として仕え、頼朝から重用される。
  • 和田義盛(1147~1213)
    三浦義明の孫で、三浦義村はいとこに当たる。初代別当に就任し、平家討伐や奥州征伐で戦功をあげる。頼朝、頼家、実朝と3代に渡って使え続けたが、泉親衡の乱をきっかけに反乱を起こす。
  • 八田知家(1142?~1218?)*1
    頼朝の挙兵に応じ、平家討伐においては範頼をよく補佐したという。頼朝からの信頼が厚く、頼朝の父・義朝の落胤説があった。実朝の渡宋計画を境に記録が消える。
  • 安達盛長(1135~1200)
    頼朝の乳母・比企尼の娘婿で、頼朝の伊豆配流時からの側近。子の景盛が頼家に妻を奪われた際に、景盛とともにこれを諌めた。
  • 足立遠元(1130?~1207?)*2
    武蔵国の豪族。頼朝の挙兵にいち早く馳せ参じた。また、文官としての才能も高かった。盛長は年下の叔父に当たる。
  • 三浦義澄(1127~1200)
    三浦義明の子。頼朝の挙兵には計画時から参加していた。頼朝からは三浦氏の長として重んじられた。
  • 大江広元(1148~1225)
    公卿の名門・大江氏の出身。頼朝の招きを受け、鎌倉に下向し、文官として強い信任を得る。「成人してから後、涙を流したことがない」と、後年自ら述懐したという逸話があるほど、冷静な人物だったらしい。
  • 中原親能(ちかよし)(1143~1209)
    大江広元の兄。頼朝とは親しく、広元より先に鎌倉に下って軍事や政務を補佐。帰洛してからは幕府と朝廷の仲介人として政務に携わる。
  • 三善康信(1140~1221)
    朝廷に仕える下級の公卿。頼朝とは文通で親交を結び、幕府成立時に鎌倉に招かれ、頼家や実朝の教育係を務める。
  • 二階堂行政(1130年代後半?~?)
    京下りの下級公卿。鎌倉二階堂に居を構え、二階堂の名字を名乗る。北条義時の3番目の妻・伊賀の方*3は、行政からみて孫娘に当たる。実朝の将軍就任期には出家し隠居したが、その後の動向は不明。

合議制はどのような結末を迎えたか? Edit

十三人の合議制の成立から数カ月後、頼家の妹に当たる三幡が夭折すると、その教育係であった中原親能はこれを深く悲しみ、菩提を弔うため剃髪し、帰洛した。だが、これをもって完全に政界を引退したというわけではなく、帰洛してからも幕府と朝廷をつなぐパイプのような役割を担っている。
その後程なくして梶原景時が多くの御家人からの恨みを買って失脚し、幕府に反乱を起こす。正治2年(1200年)には景時の反乱が鎮圧され、程なくして安達盛長と三浦義澄があいついで病死する。ここに、十三人の合議制は崩壊を迎えた。さらに、権力をめぐる政争によって頼家の舅・比企能員が頼家の母方の祖父・北条時政によって斃され、比企氏という後ろ盾を失ったことで頼家政権も崩壊することとなる。
以下に、頼朝死後から貞永式目制定に至るまでの鎌倉幕府の動静を年表として記す。

1199年源頼朝、落馬により急逝
頼家、左中将・鎌倉殿就任
十三人の合議制発足
頼朝の次女・三幡が病死、中原親能帰洛
梶原景時、失脚
1200年梶原景時の変(梶原景時敗死、梶原氏滅亡)
安達盛長、病没
三浦義澄、病没
1202年阿野全成*4、比企能員の策謀で甥の頼家により斬首刑を宣告される
1203年比企能員の変(比企能員謀殺、比企氏滅亡)
源頼家、伊豆修善寺に幽閉される
頼家の長子の一幡、北条義時の郎党の藤馬*5に殺害される
1204年源頼家、暗殺される
頼朝の三男の千幡、源実朝と改名し鎌倉殿就任
1205年足立遠元、武蔵国に戻り隠居(1207年以降死去?)
畠山重忠の乱
牧氏事件(北条時政失脚、伊豆に流罪)
1209年中原親能、病没
1213年泉親衡の乱
和田合戦(和田義盛敗死、和田氏滅亡)
1214年実朝、陳和卿*6とともに大船造立、渡宋を計画(失敗)
1215年北条時政、伊豆にて病没
1218年北条義時、薬師堂建立
1219年源実朝、鶴岡八幡宮にて甥の公暁に討たれる
公暁、三浦義村に謀殺される
1221年後鳥羽上皇、北条義時追討の院宣を出す
承久の乱。幕府方の圧勝
後鳥羽上皇は隠岐島へ、土御門上皇は土佐へ、順徳天皇は佐渡へ流される
1224年北条義時、急逝(毒殺説あり)
1225年伊賀氏の変*7
大江広元、病没*8
北条政子、病没
1232年北条泰時、貞永式目(御成敗式目)制定

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*1 1221年の承久の乱以降も生存していたという説もある
*2 隠居時にはすでに70代を超えていたと言われる
*3 NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に登場する『のえ』に該当する人物
*4 頼朝の異母弟。幼名は今若。義経(牛若)や義円(音若)は同母弟
*5 NHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』のオリジナルキャラクター・トウのモデル
*6 南宋からの渡来僧
*7 義時の後妻・伊賀の方が実子・政村を擁立し、義時の長男・泰時の家督継承を不服としてクーデターを起こした事件
*8 大江広元の死をもって十三人の合議制のメンバーが全員歴史の表舞台から去る

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