豊臣秀吉 のバックアップ(No.10)

豊臣秀吉は、戦国~安土桃山時代の武将である。一介の庶民から身を起こし、日本全土の支配者となった。
生没年:天文5年(1536年)~慶長3年8月18日(1598年9月18日)

生涯 Edit

1536年、尾張国愛知郡中村郷中中村(現・愛知県名古屋市中村区)にて農民の弥右衛門・なか夫妻のもとに生まれる。幼名は日吉丸といわれるが、現在は創作の可能性が高いとされる。弥右衛門は織田方の雇われ足軽であったが、戦の傷がもとで病死してしまう。その後、なかは織田家の茶同朋・竹阿弥という男性と再婚するが、日吉丸は竹阿弥との折り合いが悪く、数えで10歳のころから家を出て放浪生活を始める。やがて、今川家臣にして遠江・久能城主の松下之綱(嘉兵衛)に仕え(のちに主家を失った之綱を秀吉は登用するほど、両者の関係はすこぶるよかった)、その8年後に織田信長に仕官する。このころから、木下藤吉郎を名乗るようになり、信長の信頼を得て小者身分から正式に士分として取り立てられた。このころ、同じく織田家臣の前田利家と誼を通じ、親友としての関係は終生続いたという。
1561年、織田家家臣浅野氏の養女・ねねを娶る。その機敏な行動と才覚によっていよいよ頭角を現し、1566年の美濃攻めの際には、美濃と尾張の国境にある墨俣(現・愛知県大垣市)に一夜にして城を築き、美濃攻めの拠点を構築した。その2年後に信長が将軍・足利義昭を報じて上洛した際には、京都奉行の一人に名を連ねている。


1570年、信長に反旗を翻した義昭が全国の諸大名に信長追討を命ずる文を送り、命を受けた越前の朝倉義景や、信長と義兄弟の関係にあった*1浅井長政と信長が干戈を交えることとなった際には、姉川の戦いや金ケ崎城合戦で功を立て、特に小谷城の戦いでは自軍はほぼ無傷で浅井軍を大破した。1573年には長政の居城・旧領北近江3郡を褒賞としてたまわった。このころから、名を羽柴秀吉に改め、旧領北近江3郡を「長浜」と命名した。なお、「羽柴」の由来は、織田家臣で秀吉の先輩筋の丹「羽」長秀と「柴」田勝家から取って「羽柴」という名字にした、と言われている。
1575年の越前一向一揆攻めには大いに活躍し、この年12月には筑前守に任じられた。やがて織田家と本願寺の対立が深まると、信長は本願寺が中国地方の毛利輝元と団結することを恐れた。秀吉は信長の命を受けて中国攻めの総大将となり、その2年後には姫路に拠点を設置し、足掛け5年にわたって、播磨・備前・美作・但馬・因幡を攻略する。そのさなか、信長を裏切った三木城主・別所長治を「干し殺し」と呼ばれる苛烈な兵糧枯渇作戦で降伏させたり、ともに毛利と敵対するという利害関係の一致した岡山の梟雄・宇喜多直家と同盟を結ぶなどの功績を得ている。やがて直家は病没するが、秀吉は直家の子の秀家を養子として迎え入れ、秀頼が生まれた後も破格の待遇をつづけ、五大老の一人に任命している。子の待遇には、秀吉が秀家の才能を見込んでいただけでなく、直家の未亡人、つまり秀家の母の美貌に惹かれたからであるともいわれる。
1582年には備中へと軍を進め、高松城の水攻めを行い、信長の出陣を待つばかりとなった。ところが、そんな秀吉のもとに予期せぬ知らせが舞い込んでくる。信長が京の本能寺にて家臣の明智光秀の攻略を受け、横死したのである。本能寺の変である。秀吉は、士気低下を避けるため部下に箝口令を敷き、毛利輝元と和睦した。これにより、信長の死につけこんだ毛利氏の侵攻を防ぐことができた。そうして、驚異的な行軍速度で姫路城まで到着した秀吉は、織田家旧臣を味方につけ、山崎の合戦にて明智光秀を打ち破った。これが、「中国大返し」と呼ばれる行軍であった。
山崎の合戦からほどなくして、織田家の跡継ぎを決定する「清須会議」が行われた。秀吉は信長の孫・三法師(秀信)を推薦した。しかし、三法師は当時まだ3歳であった。勝家は秀吉が織田家の乗っ取りを画策していると踏んで、お市と結婚して織田家と血縁関係となる上に領地分配の際に秀吉の領地を受領するなど、秀吉の動きを封じ込める動きに出た。しかし、信長の敵をいち早く討ったのは秀吉であったため、会議は秀吉に有利な方面に進んだ。
当初は不本意ながらも勝家と協調路線に立ち、三法師が成長するまでの中継ぎとして信長の次男・信雄を擁立するなどの策を練ったが、両者は次第に対立を深め、秀吉は賤ヶ岳の戦いにて勝家や信孝、滝川一益を打ち破り、勝家や信孝は自害し、一益は降伏して助命され、秀吉傘下となった。余談だが、秀吉は跡継ぎの秀頼が生まれた後も、秀信を厚遇している。秀信も秀吉からの厚遇に恩義を感じ、弟のように秀頼をかわいがり、秀吉の死後、西軍として関ヶ原合戦に参戦した。


やがて、織田家の跡継ぎとしての立場が一過性のもので、自分が秀吉の傀儡に過ぎないことに気づき、腹を立てた信雄が父親の同盟相手であった徳川家康と結託し、織田・徳川連合軍と戦うことになる。小牧長久手の戦いである。信雄・家康連合軍との緒戦には敗れ、池田勝入(恒興)や森長可など、秀吉傘下となっていた有力な旧織田家臣を多く失ったが、信雄と和睦し、家康のもとには母のなかや妹の旭を人質として送り込み、家康を丸め込む形で臣従させることに成功する。
やがて、朝廷から太政大臣や関白職に任ぜられ、豊臣の姓を賜る。そうして、九州の島津を筆頭に欧州の伊達政宗まで多くの大名を従わせ、後水尾天皇の名の下、大名間の私闘を禁ずる惣無事令を発する。1590年には小田原攻めにより北条氏を降伏させ*2、名実ともに天下人となった。この後、関白職を甥の秀次に譲り、自らは太閤となって君臨した。


しかしこの事は、同時に、秀吉による独裁政権が始まったことを意味していた。秀吉は天下人への就任以前から、自身の言うことに唯々諾々としたがう人物ばかりを身近なポストに就任させ、結果として秀吉に諫言できる人物がほとんど誰もいなくなってしまった。秀吉の天下人就任後、これまで秀吉を補佐してきた弟の秀長や、母のなかが亡くなると、秀吉は徐々に内なる狂気をむき出しにしていく。
まず、その狂気の最もたる出来事は、一旦は跡継ぎに据える予定で、関白にまで就任させていた秀次を、秀頼が生まれた途端冷遇し、無実の罪を着せて高野山に追放したのち、自害を言い渡したことである。これにより、秀次のもとに嫁ぐはずであった最上義光の娘・駒姫が自害する事件が起こった。これにより最上義光など、かつて秀次と親交のあった大名は秀吉への恨みを募らせ、関ヶ原の戦いでは「豊臣憎し」の一心で徳川軍に就くこととなる。
次に、長年相談役及び茶の指南役として重用していた千利休と対立し、切腹を申し付けた。
これは、利休が自身の木像を作り、あたかも秀吉を見下ろすような位置においていたことが原因であったとされる。ここまでくるともう一種の言いがかりである。
秀吉と利休は茶の湯の捉え方が正反対であった。秀吉は財力に物言わせて黄金の茶室など、大名に豪奢なもてなしを施すことを目標としていたのに対し、利休はあくまでも「侘びさび」、つまり簡素さの中の美を重んじていた。両者は当初は親交が深かったものの、次第に関係に溝ができていき、最悪の結末を迎えたのであった。
また、話は前後するが、晩年になって生まれた秀頼に対し、民衆の間では「秀頼様は太閤様の本当のお子ではない」という噂や中傷が広まると、秀吉はその噂を流した本人を手打ちにしただけでなく家族まで殺し、本人の住んでいた村を焼き払った、という話も残っている。
なぜ秀吉は、次々とこれらのような狂気にかられた所業に走ってしまったのか?それは、脆弱な政権を、少しでも強固なものにしようとして焦っていたためであろう。言うなれば、天下人としてのプレッシャーや責任が秀吉の両肩にのしかかっていたのである。石田三成や加藤清正など、多くの家臣は、彼らの身分の低い時分に雇ったものであり、言葉を選ばずに言えば、成り上がり者の集団であった。譜代の家臣といえる家臣がほとんど存在しなかったのだ。心から信頼できるのは肉親のみであったが、妹や弟、母親が相次いで亡くなったことで、秀吉にはストッパーがなくなってしまったのだった。
更に、子供の秀頼を授かったのも、自身が亡くなる5年前と遅く、秀頼が成人するまでに、後継者としての十分な教育ができないことを焦っていたためもあるだろう。


そうして、豊臣政権に大きな打撃を与え、現在における秀吉の評価を大きく下げることとなったのが、文禄・慶長の役(韓国では「壬辰・丁酉倭乱」とよばれる)である。これは韓国と我が国の国交に、現在もなお禍根を残している。
これは、国内に戦乱がなくなったことで家臣に与えることのできる領地が減少し、武断派の家臣の不満を抑える意図があったとされている。秀吉の構想としては、朝鮮を服従させた後明を征服し、明の都に天皇を移住させ、そこで政務を行い、また寧波を商業的に繁栄させ、天竺まで版図を広げるというものであった。これは壮大な案ではあるものの、全く東アジアの対局を見ていない、画餅に過ぎないものであった。
当初は日本軍側が有利に進んでいた。それは、朝鮮国内で皇帝の圧政に対して激怒した民衆によるクーデターが発生しており、中には日本軍側に寝返るものもいて、朝鮮軍の統制がとれていなかったためである。
しかし、戦闘は徐々に泥沼化していった。それは、兵糧などの補給線が伸びきってしまったことや、石田三成などの文治派と加藤清正などの武断派の両者の調整がとれていなかったことが大きい。
文禄の役の後はしばし平和な状態が続いたが、1596年正月に明の国王が送った書状の「秀吉を日本国王に任じ、日本は明に臣従するべし」という内容にに、秀吉は大激怒し軍備を整え合戦に踏みきった。
しかし、朝鮮の将軍・李舜臣率いる水軍や、ゲリラ軍の「義兵」と呼ばれる集団により、日本軍はまたも苦戦を強いられた。
1598年の春、醍醐の花見を行うなか、秀吉は昏倒した。やがて、その年の夏、自らの死期が迫っていることを確信した秀吉は、床についたまま家康・毛利輝元・前田利家・宇喜多秀家・上杉景勝五大老を呼び、浅野長政、石田三成、増田長盛、長束正家、前田玄以五奉行とともに、秀頼が成人するまで合議制を運営することを誓わせた。そうして、家康と利家の手を握りしめて、「秀頼を、秀頼をよろしく頼みます」と涙をこぼした。
「死ぬ猿は 犬と狸に 子を託し」。これは、江戸時代に作られた狂歌で、秀吉の最期を皮肉ったものである。猿は秀吉、犬は利家(犬千代)、狸は家康である。もはやそこには、天下人としての威厳はかけらもなかった。
それからほどなくして、かつての天下人の命の灯が消えた。豊臣秀吉、享年63歳_____。
「つゆとをちつゆときへにしわがみかな 難波の事もゆめの又ゆめ」。秀吉の辞世の句である。
秀吉の死後、朝鮮半島にいた豊臣軍は日本に帰還した。そうして、豊臣家臣団のうち、石田三成ら文治派と加藤清正ら武断派の両者の対立は決定的なものとなり、またそれと同時に家康の専横により五大老・五奉行制が崩壊し、1600年、関ケ原にて三成は家康と、そして家康側についた清正などの旧豊臣家臣と干戈を交えることとなるのである。

天下人としての秀吉の政策 Edit

1587年、秀吉は島津氏と敵対関係にあった大友宗麟の要請を受けて、島津氏を降伏させ、国割を行った。
それと同時に、博多や長崎を直轄化し、バテレン追放令を発布した。もともと、秀吉は信長の「正当な」後継者として信長の政策を引き継いでおり、当初はキリスト教に対しても寛容だった。しかし、スペイン人やポルトガル人などのいわゆる「南蛮人」が貿易や不況に訪れる際、200人以上の日本人女性が誘拐され、奴隷として働かされていたのだった。また、秀吉は織田家臣時代に、石山本願寺などの寺内町が信長に抵抗し、信長が苦戦を強いられているのを目の当たりにしており、キリスト教の組織を「寺内」と同等の組織とみなしたのである。しかし、南蛮貿易はこれまで通り継続して行い、利益を独占した。また民間信仰については干渉しないなどの方針を打ち出しており、不徹底に終わった。
また、文禄年間(1592~1596)にはそれまでの統一事業と同時並行で検地をおこなった。いわゆる「太閤検地」である。中世の複雑に重層した土地関係を整理し、一地一作人制を確立し石高制を実施した。これにより、長らく続いていた荘園制度が名実ともに完全に消滅した。土地制度史では、この太閤検地をもって中世の終了並びに近世の始まりとされることがある。
また、兵農分離を促進させるために刀狩りを行った。1585年には高野山や多武峰(とうのみね)(現・奈良県桜井市)で部分的に実施し、1588年には日本全土に刀狩令を発布した。農民が刀剣や槍、鉄砲などの兵器を持つことを禁じ、農作業に専念させた。これにより、一揆の発生を防いだ。なお、同時並行で、治安維持のために、倭寇に対する海賊取締令を発令している。
1591年には三ヶ条の定書を発令した。これは、農民が武士や町人になることを禁じ、またはその逆をも禁じた法令である。また、農民の逃散(ちょうさん)や直訴も禁止した。こうして、武士や町人、農民などの身分の固定化や、キリスト教への弾圧などの政策は、江戸時代の幕藩体制下の身分秩序のひな型となっていったのである。

逸話 Edit

  • 独特の風貌により、信長から「猿」と呼ばれていたという。また、「ハゲ鼠」と呼ばれていたとも伝わるが、これは正妻のねねが信長に対し「うちの夫が浮気ばっかりして困っているんです」という内容の手紙に対し、信長が「あのハゲ鼠のような男に、あなたはもったいないほどの人ですから、何も気にすることはありませんよ」とフォローしたのが由来とされている。また、威厳を持たせるために付け髭をしていたという。、
  • 多指症で、右手の指が六本あったとされる。ルイス・フロイスが当時秀吉に会った際に「太閤には指が六本あった」と証言している。秀吉の肖像画も、よく見ると一本多い指を隠すようにして描かれている。

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*1 信長が妹のお市を嫁がせていた
*2 小田原城主・北条氏政は自害したが、氏直は許されて秀吉の家臣となり、その一年後に病没したが、家名は幕末まで残った

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