坂本龍馬 のバックアップ(No.1)

坂本龍馬とは、江戸時代末期の武士、商人である。

プロフィール Edit

出身地土佐藩(現在の高知県)
生没年天保6年11月 〜 慶応3年11月15日(1835年 〜 1867年12月10日)

生涯 Edit

天保6年11月、土佐の郷士・坂本八平の次男として生まれる。
実家は商家であったが、曽祖父の代で武士身分を買ったという。
幼少期は泣き虫で夜尿症が酷く、おまけに剣術も勉学もからきし上達しないため父親には将来を悲観されていたが、姉の乙女によるスパルタ教育によって文武両道に優れる少年に成長した。

嘉永6(1853)年には父の許しを得て江戸の北辰一刀流の千葉定吉に師事し、北辰一刀流の免許皆伝を得る。
文久元(1861)年、同土佐藩士の武市瑞山が結成した土佐勤王党に参加するも、政治方針の不一致からこれを脱退し、翌年には脱藩して江戸に行った。
ここで勝海舟に出会い、当初は「勝が日本を外国に売り飛ばそうとしている」という噂が流れており、ことと次第によっては龍馬は勝を斬るつもりでいたが、勝の世界情勢を見据えた弁論に引き込まれ、勝の門下生となった。この後には土佐藩から知人の菅野覚兵衛や北添佶摩、望月亀弥太などを呼び寄せて神戸海軍操練所建設に尽力するが、幕府に目をつけられた勝が操練所の教員の役職を解雇され、失敗に終わった。

慶応元(1865)年、菅野覚兵衛や片岡健吉、陸奥陽之助(後の陸奥宗光)や近藤長次郎などとともに長崎の亀山に社中を開く。この社中は後に海援隊と名を改め、海外との貿易を見据えた日本初の商社と言われる。この設立にはイギリス商人のトーマス・グラバーも協力した。これと時期を同じくして、武市瑞山ら土佐勤王党の党員が全員捕縛され、死罪ならびに斬首を宣告された。

倒幕のための作戦として、同土佐藩士の中岡慎太郎とともに薩長連合締結に努力した。薩摩藩(現在の鹿児島県)と長州藩(現在の山口県)に手を結ばせることで、長州は薩摩に米を提供でき、薩摩は長州に武器を提供できるという寸法である。慶應2(1866)年には西郷隆盛と桂小五郎(木戸孝允)の盟約に立ち会い、薩長連合を成功させた。

慶應3(1867)年6月、土佐藩上士の後藤象二郎と長崎から海路上京する船中で、独自の国家構想である「船中八策」をまとめた。元々後藤は龍馬から見れば後藤はかつての同志を死に追いやった不倶戴天の敵であり、後藤からすれば龍馬は自らの叔父・吉田東洋を暗殺した勤王党の手先ということもあり、なかなか手を取り合うことは難しいものであったが、二人は手を組んで倒幕への面舵を引き、龍馬と後藤はこの案を前藩主・山内容堂に進言し、容堂もこれを快諾した。こうして、大政奉還がなされた。

同年11月15日、龍馬は中岡慎太郎と共に京都近江屋で暗殺された。
龍馬を暗殺した犯人は、現在に至るまで不明ながらも、京都守護職・松平容保の命を受けた佐々木只三郎ら京都見廻組の可能性が高いとされている。これ以外にも、新選組説や大政奉還により討幕の大義名分が消滅したことに怒った薩摩藩の代表・大久保利通が黒幕であるとする説や後藤象二郎による大政奉還の手柄の独り占め説などがある。
龍馬は額を切られ、脳漿が吹き出て即死したが、中岡はまだ息があり、一時は軽食が取れるほどに回復した。しかし襲撃から二日後に
容態が悪化し、この世を去った。


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