勝海舟 のバックアップ(No.1)

勝海舟は、江戸末期の幕臣である。尊王攘夷派の志士に開国と統一政権樹立の必要性を説き、江戸幕府瓦解の始末を行った。
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画像出典:


生没年:1823~1899(文政六~明治三十二)
出身地:江戸

幼年期 Edit

旗本・勝小吉の長男として江戸本所に生まれた。幼名は麟太郎。父親は幕臣の中でも身分が低く、おまけに放蕩者であったため生活は困窮を極めていたが、義侠心に富み、自身より立場が上の人物にも歯に衣着せぬ物言いをする性格から、市井の多くの人に慕われたという。
麟太郎少年は従兄弟で剣豪の男谷信友(おだにのぶとも)に剣術を習い、のちに男谷の一番弟子の島田虎之助にも学んだ。麟太郎少年は熱心な稽古ぶりを島田に認められ、免許皆伝の腕前となった。
しかし、9歳の時に道場から帰る途中、野犬に睾丸を噛まれるという事故に遭っている。一時は生死をさまようが、父・小吉の賢明な看病や水垢離により回復し、一命をとりとめた。

青年期 Edit

剣の師の島田は、蘭学者の伊東玄朴と親交があった縁で、「剣術だけでは列強からわが国を守ることはできない。兵術と呼べるものを広く学びなさい」と麟太郎青年に西洋式兵術の収得を勧めた。当初、麟太郎青年は蘭学の大家とされた箕作元甫(みつくりげんぽ)に弟子入りを志願するが、「私が蘭学を教える目的は西洋の医術であって、君が学びたいような人殺しの兵術ではない。」と断られてしまう。次に、元甫の弟子であった永井青涯に弟子入りを志願したところ受け入れられ、永井のもとで蘭学を学んだ。オランダ語の辞書「ズーフ・ハルマ」を独力で2部筆写し、1部を販売して蘭学の勉強のための資金に充ててもいる。
嘉永3(1850)年、江戸赤坂に蘭学の私塾を開いた。この頃、逃亡中の高野長英と面識がある。「氷川清話」に高野長英についての記述があるのは、この出来事による。蘭学を享受する傍ら、諸藩の求めに応じて自身の蘭学の知識をフル活用して大砲の製造を試みた。そのころ、砲術を教えていた佐久間象山に出会い、佐久間に教えを乞うこととなった。やがて、佐久間の自邸に頻繁に出入りするようになった勝は、佐久間の書いた「海舟書屋」の額を気に入り、「海舟」と名乗るようになった。また、勝はのちに妹を佐久間のもとへ嫁がせており、義兄弟の関係ともなっている*1

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*1 勝より年上の佐久間が勝の義弟となるという少し奇妙な関係だが

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